[movie] ブラック・スキャンダル

ジョニー・デップ主演、スコット・クーパー監督の、「実話に基づく」です。(またか。)

ボストンのアイルランド系住民で、幼い頃に絆を結び、今はそれぞれ別の道を歩んでいた3人、ギャングのボスとなったジミー・バルジャー、その弟で上院議員のビリー・バルジャー、友人でFBIの捜査官になったジョン・コノリーの人生が再び絡み合って、というお話です。

このジャンルは『ミスティック・リバー』とか『スリーパーズ』とかの傑作が記憶に残っているので大変ですよね。※なお「このジャンル」というのは「ケビン・ベーコンもの」のことです。

ちなみに「実話に基づく」とは言え、ポスターには「Based on Book」なんていう書き方がしてあって、実際にはDick Lehr とGerald O’Neillによる「Black Mass」というドキュメンタリーが原作になっています。映画も、原題は『Black Mass』ですね。

さて、中身ですが。

この映画のジョニー・デップは、どうしても頭部のバーコードっぷりが目立つんですが、実に凄みと深みのある演技をしていて、目の下の隈取りがなくても、ドーランを塗ってなくてもちゃんと存在感のある演技ができる、ということを改めて証明しています。批評家筋でもキャリア・ベストという声がちらほらあるくらいで、何というか、キャラクターではなく、「人物」を演じている感じ。

ちなみに弟役を演じるベネディクト・カンバーバッチとはあまり濃い絡みがないんですが、兄のジミーと、対照的に「正しい人」であるビリーとの関係は、淡々としながらも非常に堅い絆であって、劇中、二人が絡む最後の場面である電話のシーンはそれを見事に描き上げています。こういうベタベタしない兄弟は尊いし、ああいう「さらっと固い」みたいなのは非常に好ましいです。

劇中には他にもいろんなドラマがあって、特に主人公であるジミーの愛情と孤独、家族の喪失と、失くした拠り所に対する埋め合わせのように虚しいIRAへの傾倒などなど、じゃあ結局、このジミー・バルジャーという男は「何だったのか」、そして監督は何を描こうとしていたのか、というのが一見して掴みづらい、なんとも紛糾した感じに仕上がっています。ある意味、最近書いてきた流れで言えば、「実話に甘えて」そのまま放り出しているようなところがあるわけです。描くのではなく、ただそのまま提示する、というか。

しかし、この丸投げに意図がないかというとそうではない気がしていて。

ここでタイトルの話に戻るんですが、Black Massというのは、日本ではむしろ「黒ミサ」という言葉で知られていますが、要は反キリスト的、悪魔主義的な祭礼であったり、集会であったり、あるいは秘密裏に行われる結社の儀式です。このポイントは『ブラック・スキャンダル』という邦題では薄まってしまうのですが、この言葉の選択には割と大きな意味がある気がしていて、黒ミサであれ反キリストであれ、本来のミサあるいはキリスト教という枠組みがまずありきの構造で、それに反発し、それを歪曲し、それを憎悪して揶揄することをその「冒瀆」の核にしているがゆえに、むしろそういう本来の価値観に不可避的に根ざしてしまっている、というような含意が底にあるように感じられるわけです。

劇中、何度も出てくる教会のシーンもその辺りを補強しているような気がするんですが、そう思うと、そうした信仰であったり正しい道であったり、そういった善なるものを対比の軸に置きつつ、一人の人間として家族を深く愛しながらすべてを失っていったジミー・バルジャーと、イタリアン・マフィアを放逐するという正義を目指していたはずのジョン・コノリーの間に、この、実に黒々とした「Black Mass」が生まれ、何もかも飲み込んでいった、という、如何ともしがたい「大きなうねり」とそれに取り込まれた人の「魂」、そして流された果てにそこに生じてしまった、魂の「あるべきところからの距離」または「断絶」といったことがひとつのテーマなのではないかと思います。

そう捉えると、何というか極めて救われない話なんですが、しかしエンディングで淡々と提示される事実には、救済とは言えないまでもほのかな光が残っている気もします。

今作は「登場人物のその後を語る」という、おいおいそれをやるか、という終わり方をしていくんですが、そこで語られる「事実」は、単なる添え物的な「後日談」を超えて、ストーリーとしてのテーマに帰結しています。そこで提示されている、弟であるビリーと、友であり共犯者であったジョン・コノリーの「その後」は、結局どちらも、最後までジミーを「売らなかった」ということを意味しているわけです。後者はまぁ報復を恐れて、ということかもしれませんが。結果としてそこに残ったままの絆が、この映画が最後に目を向ける部分なんですね。

そのことを、それぞれ存命である、現実に存在している3人が互いに知って、互いに黙したまま、抱えたまま、今は別々に生きている、というのは、何となく、ただただ長い溜息が漏れるような話です。

そんなケビン・ベーコン・ムービーでした。

[movie] 完全なるチェックメイト


またしても「実話に基づく」です。

というか、トビー・マグワイアがチェックメイトする、くらいしか事前情報がなかったので、まさかボビー・フィッシャーものだとは思っていなかったのですが、おかげでとんだ不意打ちを食らってしまいました。

トビー・マグワイアは名演というか、実話だというのに当て書きじゃねえか、っていうレベルではまっているんですが、演技という観点ではライバルのスパスキーを演じたリーブ・シュライバーがなかなか素晴らしい演技をしています。

ただ全体的にいまいち、ちぐはぐ感があるというか、音楽であったり当時の映像クリップであったり、あるいは当時の映像風に加工した映像表現であったり、挿入される様々なものが何となくとっ散らかった印象を残した感があります。プロット的には最後のスパスキーとの決戦というところに収斂していくんですが、その結末の後、映画のラストがまた散らかるというか。

この映画、そもそも邦題の『完全なるチェックメイト』が意味不明なんですよね。クライマックスである24番勝負の第6局は実際にはチェックメイトではなく、スパスキーの投了で終わっていて、映画全体を見ても「チェックメイト」が暗喩として成立するようなモチーフもなく。じゃ、原題はどうなんだ、と見てみると、こちらは「Pawn Sacrifice」で、これも何だかよくわからず。ちょっと調べてみると、監督のエドワード・ツヴィックが「ボビー・フィッシャーもスパスキーも、それぞれアメリカとソ連の間の冷戦でのポーンの一つに過ぎなかった」とか言っているらしく、おいおい、そっちがテーマかよ、と後から悟る羽目に。言われてみればそういうシーン多かったよ!

まぁちょっと根本的に勘違いして観ていたようなので感想も的外れになってしまう気がしますが、とりあえず、その第6局はよかったです。『セッション』を観た時に「音楽というもの」という概念がキーになって、というところがあったわけですが、ある意味で、それに通じるような「チェスというもの」「チェスプレイヤーという人々」という概念レベルでの共鳴をほのかに感じさせる部分があって、そういうのはやはり大好物なので。

というわけで、トビー・マグワイアがチェックメイトしなかったわけですが、そうかーボビー・フィッシャーかー、というような歯切れの悪さを残してとりあえず記事を閉じることにします。(なんだそれ)