[movie] レヴェナント: 蘇りし者

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アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督が前年の『バードマン あるいは (無知がもたらす予期せぬ奇跡)』に続いて二年連続のアカデミー監督賞を受賞し、かつ、レオナルド・ディカプリオに悲願の主演男優賞をもたらしたクマ映画です。クマ度について言えば、ハリウッド映画史上に新たな金字塔を打ち立てたと言っていいのではないかと思われるレベルで、クマの大きさやその膂力だけでなく、息遣いや重量感、体毛のゴワゴワ感までをしっかり描き切った手腕は見事という他ありません。

またこの作品を語る上では撮影監督のエマニュエル・ ルベツキ(彼も『バードマン〜』に続いて撮影賞を受賞しました。その前の『ゼロ・グラビティ』から数えて何と三年連続)の存在も欠かせないわけですが、この人もまた自分の立ち位置をフルに活かして好き放題やっていて、特に全編を通じてほぼ自然光のみで撮影、という現代の映画作りの中では狂気としか言いようのないこだわりで物凄い「絵」の奔流を生み出しています。

実際、本当に凄まじい作品なわけですが、このイニャリトゥ監督の作品というのは、私自身が無意識に映画というものに対して想定している「体裁」とか「フォーマット」的なものがすり抜けてしまうというか、投射しようとするこちらの期待とあまり互換性がなくて、その部分が期せずして独特の味わいを生んでいるような気もします。何というか、イニャリトゥ監督は「映画」というものを「制作」するというよりは、自分の「作品」という、映画云々以前のもっとプリミティブな輪郭を持つ何かをフリーハンドで「デザイン」しているような、と言ったらいいんでしょうか。

そういう意味では、この作品はもちろん素晴らしいわけですが、あくまで個人的な感覚としては、それは映画という定型の評価軸上の素晴らしさというよりは、イニャリトゥ監督が、ディカプリオの鬼気迫る演技だとか、ルベツキの研ぎ澄まされた「画」力を思いのままに組み上げて作った156分という「経験」の素晴らしさという気がするわけです。

この辺りは個人の好みもあると思うんですが、何よりもまず「ストーリー」という要素の位置付けが希薄というか、例えば『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が、ストーリーの純度を高めた結果、「神話」のように抽象化・普遍化された、という言い方をするなら、今作はさらに抽象化が進んだ結果、ストーリーという枠組みすらも脱却して「星座」になってしまったというか。プロットとして「紛糾」が提示されて「解消」に至るという当たり前の流れが、ほとんど透明と言っていいレベルになっているように感じられます。なので、今作が非常に高く評価され、監督賞、主演男優賞、撮影賞を獲得しつつも作品賞受賞には至らなかったという結果は割としっくりくるというか。

ただそれはもちろん、この作品が映画としてどうだこうだ、ということではなく、やはり極上の逸品であることは論を俟たない話であって、ため息どころか魂が漏れそうなほどに美しい映像の中、ディカプリオの全身全霊をかけたような演技を堪能するというのはちょっと他では得がたいような素晴らしい時間には違いありません。(というか、本当に今作でのディカプリオの演技とルベツキの映像はちょっと常軌を逸しています)

というようなことをつらつらと思うわけですが、とりあえず作品を堪能して、そしてしばらく時間をおいて消化吸収もひと段落終わった上での結論としては、ディカプリオおめでとう、という感じではあります。あとクマとかよかったなー、みたいな。

なお字幕は松浦美奈さんでした。本当に当たり年です。

[movie] ボーダーライン

エミリー・ブラント主演、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による、ベニチオ・デル・トロ映画です。もう果てしなくベニチオで、救いようもなくデル・トロ、ところにより一時ジョシュ・ブローリンという感じに突き抜けた作品です。

今作は「実話に基づく」ではないんですが、極度にエスカレートしたメキシコの麻薬とマフィアの問題を題材に、絵空事ではない背景をベースにしつつ、エミリー・ブラントをダシにして執拗にベニチオを描いています。邦題はわざわざ『ボーダーライン』として、ポスターでも「善悪のボーダーラインは云々」等と「親切設計」に改めているわけですが、そもそも原題「Sicario」は、メキシカン・ドラッグ・カルテル界隈では「Hitman」的な意味で使われる言葉だそうで、明確にベニチオ・デル・トロ演じるアレハンドロ自身を指しています。

たしかにCIA主導のいかがわしい超法規的捜査だったり、それに巻き込まれた女性捜査官ケイト(エミリー・ブラント)の、自分自身の正義との葛藤だったり、あるいは舞台であるアメリカとメキシコの国境そのものと、そのこちら側と向こう側での世界の対比だったり、「ボーダーライン」というものが非常に大きな、作品の主要モチーフであることは間違いないんですが、やはりこの映画はベニチオ・デル・トロが演じるアレハンドロの映画だと思うわけです。

キャラクターの造形としてはある意味でシンプルな「復讐者」ではあるんですが、これをベニチオ・デル・トロが演じていることで意味が生まれているというか。終盤、麻薬王と食事の席で対峙するシーンなどは、それ自体がこの映画の「コア」と言っても差し支えないレベルになっています。

また撮影監督のロジャー・ディーキンスがまたしても地位と名声をいいことに(しているかどうか知りませんが)「好き放題」やらかしていて、前半の高速道路のシーンもまたこの映画の「コア」と言っても(以下同文)

ということで、善悪の彼岸此岸といったいかにもそれっぽいテーマなどはさておいて、「映画」を作ろうとして「映画」を作った、というような動機の純粋さが心地よい作品です。あと個人的には、『ゼロ・ダーク・サーティー』が開いた新しい何かを、ハリウッドとしてフランチャイズ化していくような戦略的な思惑もあるのかなという気が。続編の話もすでにあるようで、こういうソリッドでドライな背景と舞台に、裏面に秘めたウェットさをほのかに滲ませるような感じでベニチオ・デル・トロのシリーズが続いていくならそれはそれで大歓迎ではあります。

字幕は松浦美奈さん。今年は当たり年ですね。

[movie] リリーのすべて

The Danish Girl
トム・フーパー監督、エディ・レドメイン主演の、世界で初めて「生得の性別を変える」手術に臨んだ人物、アイナー・ヴェイナーとその妻ゲルダを描いた「実話に基づく」ドラマです。字幕は松浦美奈さん。

実は、この作品については長いこと予告編を見せられ続けているうちに、観る前からけっこうしんどくなっていたんですが(エディ・レドメインのつらそうな涙が精神に堪える)、ようやく公開されたということで覚悟を決めて臨んだのですが。

やはり心に堪える作品で、最終的には、非常に美しい、どこかしら清浄な光を思わせるようなエンディングを迎えるものの、そのあとにはやはり、彼らが負った傷や抱いた苦しみの重さのようなものが残ります。

特に今作でアカデミー助演女優賞に輝いているアリシア・ヴィキャンデルが演じる「妻」であるゲルダは、「愛する夫」の内面から芽吹き、生まれてくる「まったくの別人である」「新しい女性」への困惑と受容、理解と隔絶、それに対面する自らの強さと弱さの間に揺れ惑うひとつの魂として、つらくなるほどに鮮やかに描かれています。

もちろん、自身の中に「女性」をはらんでしまった「男性」としての苦悩を直接負っているアイナー(リリー)も、その痛みの重さと深さ、そしてそれを演じるエディ・レドメインの卓越した演技力という点において、実に一歩も譲るところはないのですが、個人的にはこの作品で一番重く響いたのは、ゲルダの方でした。

たとえば『キャロル』をフェミニズムや同性愛といった軸から捉える視点と同じように、この『リリーのすべて』をトランスジェンダーという観点から見つめることは極めて妥当なことであろうと思うのですが、個人的にはどちらの作品もそういった「枠」を越えた、普遍的な人間の魂の物語であるような気がします。『リリーのすべて』、というタイトルではありながらも、これはリリーとゲルダのふたつの魂についての物語ではないかと。

その観点で見ると、女性として「生まれる」ことに対する無垢な期待感と希望に、幼いとさえ言いたくなるような純粋さですべてを委ねようとするリリーと、その後に残され、「愛する夫と生きる日々」という「これまでの自分が選んだ現実」を手放し、「愛した者が消えてしまった日々」という「新しく強制された現実」を受け入れようとするゲルダの対比は、光と影を隣り合わせに並べるかのように残酷でもあります。

アイナーの方は、リリーという名の女性としてまったく別の存在になろうとし、むしろ「アイナーである自分」や「アイナーであった人生」を、耐えうるべからざる苦しみとしてそこから解き放たれようとするのですが、そうして捨てられようとする「彼」の姿も形も、そこにいたるまでのすべての時間も、ゲルダの方から見ればすべて彼女の人生と魂から連続してつながっていたはずのものであり、昨日までと同じように、同じ姿でそこに存在するにもかかわらず、突然「断絶」してしまう、途方も無い喪失を彼女は受け入れなければならなかったわけです。その構図は、最終的にはゲルダの選択として追認される形ではあるものの、ある意味、どこまでも一方通行的です。そして、個人的にはこの、他に選択肢のない、激しく厳しい「一本の筋書き」に対する「主体」と「客体」としてのリリーとゲルダ、というのがこの作品の大きなモチーフであるような気がするわけです。

別の言い方をすれば、リリーは「願いを叶えて旅立った魂」であり、ゲルダは「願いを諦めて見送った魂」なわけです。そして、お互いのその決断の一点において、そこにいたるまでに自らのうちに得られなかったものを手に入れようとするリリーと、そこにいたるまで自らのかけがえのない一部であったものを手放すことになるゲルダの、それぞれの人生の致命的な交錯のような瞬間を象徴しているのが、駅での別れのシーンだと思うのですが、リリーを見送ったのち、真っ直ぐに、足早に歩くゲルダの姿は、砕け散ろうとする何か大きなものを必死で繋ぎとめようとする内面が蒼ざめた凄みとして滲んでいるようで、さすがにこれを見せられるとアカデミー助演女優賞はアリシア・ヴィキャンデル以外に与えようがない、という気になってきます。

さて、もう一方のリリーですが。

この作品、予告編でリリーのセリフとして「I love you, because you are the only person who made sense of me. And made me possible」という非常に印象深いフレーズが出てきていました(本編では出てきていないと思うんですが)。それを予告編で聞いていた時点では「No one else made sense of me」というリリー寄りの捉え方で「おおおお何というセリフだ」とぐっと来ていたんですが、本編を観た後では「Is that the only reason you love her?」というようなゲルダ寄りの(極めておせっかいな)観点が生じてきていて、ちょっと印象が転換した感があります。そして、この転換した後の印象自体も、もうひとつの作品のテーマに絡むような気がしています。

この予告編のセリフから感じた個人的なもやもや感のようなものは、リリーの悪意からではなく無垢さから来る「自分のことだけを中心にした視点」から来ていると思うんですが、原作からなのか脚本なのか監督なのか、とにかくリリーについては「子供のような純粋さ」が随所にあらわれる描かれ方をしていて(それがまたチャーミングなわけですが)、最終的にはあたかも「誤って地上に生まれてしまった純粋な魂がひとときの苦しみを越えて天に帰っていった」かのような結末を迎えます。その流れの末に、ラストシーンで風にさらわれた形見のスカーフに対してゲルダがおもわず叫ぶ「No, leave it! Let it fly!」というセリフも、そんな人智を超えた「天の配剤」を受容するような意味合いを帯びて響いてくるわけですが、正直なところ、神ならぬ人の身でそれを受け入れるゲルダを、あるいは「受け入れてしまった」彼女を、観る側としてはなんとなく受け入れそこねてしまった感があったりもします。単純に言うと、そりゃあんまりじゃないか、というか。

しかし、それがこの作品の自分なりの捉え方で、かつ、自分という受け手に対するこの作品の形なのだろうということで、意外と不愉快ではなく、むしろそういう作品としてより深く響いている気もします。生まれたばかりのリリーの愛らしさや健気さに母性本能的な何かをくすぐられて彼女の願いを叶えてやりたいと共感する部分に騙され切らず、この開花しなかったカタルシスのつぼみのようなものが、この作品が自分に残したものなのかと。

そんなわけで、感想としてもあまり綺麗に整理しきれないままではあるのですが、そういうことでよしとしようかと思います。あと、この映画については監督の名前がとっさに出てこず、あろうことか「トビー・フーパー?」などというおよそ考えうる中で一番ギャップの大きい過ちを犯してしまったことについては、ここで正式に懺悔しておきたいと思います。

 

[movie] ヘイトフル・エイト


クエンティン・タランティーノ監督の第8作目、南北戦争後ほどなくのワイオミング州で、猛吹雪のために図らずもひとつ屋根の下に閉じ込められた曲者たちが織り成す密室劇、ということなのですが、もちろんタランティーノなので、一筋縄では済ませられないわけで、あまり歯切れのよい、簡潔な説明は実はできなかったりします。以下はその「簡潔な説明」に辿り着くまでの私的な覚書です。

さて、最初に「密室劇」という言葉を出しましたが、単にひとつの閉鎖空間でストーリーが進行するという意味で「密室劇」という言葉を選んだというわけではなくて、今作には実に濃厚な「舞台劇」的テイストがあるんですね。役者の語り口、セリフの応酬、登場人物同士の衝突と対峙から生まれる濃密な空気感。今作は70mmフィルムでの撮影ということで話題になったんですが、ワイオミングの広大な雪原を描くためではなく、むしろ役者たちが発する「力場」のようなものを孕んだ「劇空間」を独特な広がりのあるフレームとして、また濃密な厚みを持つトーンで捉えるためのチョイスであったような気がします。

そしてこの「役者の演技」という観点では、カート・ラッセルやサミュエル・L・ジャクソンといった、主役的な立ち位置の俳優だけでなく、脇を固めているティム・ロスやマイケル・マドセンが完璧な当て書きっぷりで、タランティーノ作品の真骨頂という感があります。基本、ひとつの密室の中での一昼夜、という極めて狭いスコープの、実に舞台的なセッティングの中で「会話」と「プロット回し」だけが濃密に絡み合う今作は、同じく非常に「舞台劇」的な色合いを持った『スティーブ・ジョブズ』を思い出させるわけです。そっちもつい最近観たばかりですし。

しかしそうして並べて考えると、やはりタランティーノは「映画の人」なんですね。「舞台劇」的なフレーバーというものは漂わせつつも、あくまで「映画」の「骨」で立っているというか。つぶつぶ感たっぷりの血糊であったり、アカデミー賞に(やっと!)輝いたエンニオ・モリコーネの音楽であったり、タランティーノ風味のカッティングであったり、約3時間という長尺を飽きさせない「映画畑のとれとれ新鮮タランティーノ作品」としてのエンターテイメントに仕上げられています。(一方の『スティーブ・ジョブズ』も大傑作なんですが、方向性が根本的に違うというか)

で、その「映画」という観点で考え直してみると。

昔から「西部劇」というのは世界からも文明からも孤立した閉鎖系の中で立ち上がる、一時的かつ特殊な「空間」、荒野のどこかにあるかもしれないし、ないかもしれない、そもそもあってもなくてもどちらでも外の世界にも実在の現実にも関係がない「異空間」を作るための装置だと思っているんですが、今作の、吹雪に閉ざされた駅馬車の屯所(兼、洋品店)という舞台は二重の、一見、冗長な構造なんですね。しかし、それはある意味で本作にアプローチするための手がかりであるかもしれないという気がしています。何というか、こうした舞台立て自体に、「西部劇による」「西部劇に対する」オマージュという感があって、今作ではそういったメタな観点が重要なカギなのではないかと。西部劇という世界を描く西部劇と、西部劇の在り様について語る西部劇、西部劇を総括する西部劇というか。

同じ西部劇というくくりでいうと同監督の前作、『ジャンゴ』の印象が未だに鮮烈だったりしますが、『ジャンゴ』は主演のジェイミー・フォックスもさることながら助演のクリストフ・ヴァルツとレオナルド・ディカプリオが素晴らしすぎて、彼らによって演じられた「人間の魂」のドラマになっています。(少なくとも、私の中では。ちなみにサミュエル・Lについてはいつものことなのであえて言及するまでもありません)

それに対して今作は形の上ではサミュエル・Lの演じるマーキス・ウォーレン『少佐』が主人公的な位置付けではありますが、主人公があって周りの登場人物やストーリーの流れが決まるというよりは、西部劇という枠組みの中で必然的に埋めなければならないポジションに、西部劇というストーリーの必然に要請されてサミュエル・Lが配された、と言いたくなるような描かれ方をしています。これは別に、『少佐』が「主人公にあるまじきクズである」、ということではなくて、他の登場人物すべてがそういう形になっていることを背景とした感覚です。

今作の登場人物は「ヘイトフルな8人」からそれ以外までも数えると、

  • 黒人
  • 賞金稼ぎ
  • アバズレ/賞金首
  • 保安官
  • 老将軍
  • 外国人
  • カウボーイ
  • メキシカン
  • 御者
  • 酒場(屯所)の主人
  • 酒場(屯所)の女将
  • 黒人メイド
  • 陽気な女御者

といった並びで、何というか実にTypicalな西部劇のアーキタイプなんですね。個々の言葉だけでは表しきれないものの、それぞれに配分された「特徴付け」と「性格付け」を合わせると、ちゃんと確認したわけではありませんが、西部劇の主要な要素が概ねカバーされているような気がします。もう、各登場人物に個別の名前がなくてもいいレベル。

これをちゃんとストーリーとして整合する様に組み上げた上で、人種差別、南北戦争とその後に残った諸々の影響、「法の正義」と「西部の正義」と「Dead or Alive」と私闘における正当防衛、といったモチーフを盛り込んでるわけで、観る方としてはよほど西部劇と相性がいいか、西部劇に愛着のある人でないと受け止めきれずに飽和して疲弊してしまうのではないかという気がするわけです。(Twitterなどを見ていても、実際、タランティーノなのに眠くなった、みたいな話を散見します)

さらに、こうした登場人物やモチーフといったストーリー上の構成ブロックだけでなく、本稿冒頭で挙げた「舞台劇」的な仕立ても、あるいは人物のセリフの応酬で構成される部分の比率の高さも、強烈に力のある脚本も、70mmフィルムの採用もその撮影手法も、すべてこのメタな、抽象化されたレイヤーでのテーマの取り扱いのために周到に用意され、目的を達成するために非常に根本的なレベルで狡猾に統合された構成要素なのかもしれません。(単にタランティーノの趣味という可能性も少なからずありますが)

で、このように作劇上の構成要素とそれがどのように配置され「消費されたか」を考えると、どうしても、「『西部劇』をテーマに自由に作品を作りなさい。上映時間は何分かけてもよいものとする」というお題を自分で出して、嬉々として自分で取り組んだタランティーノの無邪気な熱中顔が頭に浮かんで仕方ないんですね。西部劇なんだからあれも入れなきゃ、そうだ、これもないとダメだろう、みたいな、フリースタイル時間無制限一本勝負、戦う前から勝者は自分一人、タランティーノ一人勝ち、みたいな。

そしてそういうことをやっている以上、そのメタな取り組みの中で、必然的に非常に重要になってくるのが、あるいは、最終的にこの作品が作品として提示しなければならなくなるものは、タランティーノが「西部劇」をどう定義しているか、ということではないかと思います。特に今回、「西部劇」そのものをモチーフに「西部劇」で語ることによって、「西部劇」を作る視点、すなわち「現実のアメリカ」の同時代から現代に至るまで、現実に対して「西部劇」がどういうものとして作られ、存在してきているのか、さらに言い換えると「物語と現実」の関わりに対する視点が自ずと浮き彫りになってくるような気がするわけです。

そして、その視点は、反省的な、というほどの「色」はついていないんですが、やはり俯瞰的、大局的なものであって、そうやって視点を構えたことに対するタランティーノの総括のリマークが、冒頭のシーンに映る、雪に埋もれて誰も祀るもののないキリスト磔刑像なのではないかと思うんですね。

この作品では8人がそれぞれ自分一人の魂に殉じ、「憎しみを全うする」だけで、そこには何の正義もなく、かつ、誰かが快哉を叫ぶようなハッピーエンドもなく、そして何より「西部劇」は現実に対して「何物でもない」わけです。西部劇の「憎しみ」は物語の中において解消されず、それはすなわち、物語が現実の「憎しみ」を解消しない、ということでもあって、世界においては、神ならぬ人の身のレイヤーではただただ不正義と憎悪が蔓延し、たどたどしいピアノと悪党の高笑いが響き、そしてつぶつぶ感いっぱいの血糊と、立ち上る様々な煙だけが宙を舞い続け、そして、「西部劇」として語られてきた「物語」は何の「解決」も見ない。

しかし、おそらくタランティーノの立ち位置は「それが『西部劇』である」というものであって、この作品そのもの全体が、彼がそのキリスト磔刑像によって力強くピリオドを打って締めくくった、ひとつの明確なステートメントなのではないかと思うわけです。「人の子よ、おお、Hatefulなる者たちよ、(以下略)」という、(以下略)の余韻も含めた世界観の言明というか。

西部劇というのは、上述した通り、荒野の中での「浮き島」のような構造を持っていて、ストーリーに干渉しない絶妙なレベルにある文明によって極めて強固に成立させられたその「隔離」の「浮き島」の中で、「その中だけで成立する真実や真理」を描くことのできる優れたフォーマットなのですが、その方式上、やはり作り手の「伝えたいもの」「見せたいもの」に対する強烈な収斂性が殺意を持って迫ってくる名作というのが多々あります。

それに対して、その「フォーマット」をフォーマット自体によって自己言及的に描いているこの作品では、その「焦点範囲」が全体の構成そのものに拡散する形で広がっているために、なかなかとっつきにくくなっている部分もあるのではないかと思うんですが、自身が熱烈かつおそらくはかなり偏りのある西部劇ファンであり、ジャンルの第一人者でもあるタランティーノによる、「『西部劇』というジャンルそのものに対する『総括』」として本作を観るのは、なかなか濃厚で、かつ非常に独特な映画体験と言って差し支えないと、個人的には思います。(で、そうして観ると、彼が「拾わなかったモチーフ」というのも見えてきて、それがまた非常に示唆に富んでいる気がするわけです)。

まぁ、そんな回りくどいことを言わずとも「ああ、あれは『タランティーノ』だよ」とひとこと言えば、それでこの作品を人に説明するのには足るのかもしれません。タランティーノ以外では絶対に作れない(作らない)作品でした。

[movie] キャロル

Carol

トッド・ヘインズ監督による、ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラが、ふたり揃ってアカデミー賞主演女優賞と助演女優賞に最有力候補としてノミネートされている、「うつくしい人」度が致死量レベルに達してしまった作品です。

何というか、あまりに「うつくしい」がゆえに、もう何というかあまり正面から語る気が起きないので本筋については置いておくとして。

この作品では「ガラス越し」のショットが多用されています。キャロルも、テレーズも、それぞれ自分だけで、自分ひとりでいるような場面では特に、車の窓ガラス越しであったり、ショーウィンドウ越しであったり、オフィスのパーティション越しであったり、何にせよいつも、冷たく透明な何かに遮られた向こう側にいて、その時々の様々な表情の上に、雨のしずくであったり光の反射であったり、いろんなものが重なって映っていきます。

Carol behind glass

Therese behind glass

そこで描かれているのは、現実の世界とは相容れることのない美しさであり、その「一枚向こう」にある彼女たちだけの真実に対して、移りゆく現実の光と影はあたかも接して共にあるようには見えても、その実、重なってはおらず、手を伸ばして無理に近づこうとすると何かが割れてしまう、そんな致命的な隔たりがそこにはあるわけです。

それは、何も彼女たちが自ら望んでそこに隠れたり逃げ込んだりしているということではなく、自然な自分自身の有り様で生きている、ただそれだけで、魂と身体、声と体温が、図らずも世界からガラス一枚分隔たってしまう。そんな撮影がされています。(どんな撮影だ)

ちなみに、撮影監督はエドワード(エド)・ラックマンですが、彼はフランス撮影監督協会(AFC)のインタビューで、撮影機材についてこう答えています。

EL : …The images quite simply needed to look like people could have been able to film them in the 1950s.

Which is why we shot in Super 16, so we could find the picture character that was appropriate to the era. Modern 35mm film was actually much to fine to end up with that on the screen.

16mm… in 2015 ? Did I hear that right ?

Can you give us some specs on the equipment ?

EL : We shot with an Arri 416, and for the most part I mounted it with an old Cooke 20-60mm zoom, which I love. We also had an Angenieux 25-250mm and an Arri Master Zoom 16.5-110mm. For the fixed lenses, I used a few Cooke Panchros that are 30 or 40 years old, and of course without any diffusion because in 16mm, we are after all trying to preserve all of the definition the film can capture !

1950年代という時代の空気を出すために、16mmフィルムによる撮影で、かつ、あえて古いレンズを使っているわけですが、その味わいはけっこう独特で、フィルム・グレインだけでなく、光源の輪郭の見え方(というか緩やかな綻び方)が非常に印象的です。まさにラックマン(そしてトッド・ヘインズ監督)の思惑どおり、こうして撮影された本作は、現代から遠く離れた時代の物語を、今とは別の土台の上に成り立った時代の話として、現代社会の文脈とは綺麗に切り離して成立させています。

本作『キャロル』は互いに惹かれ合う女性ふたりの物語ですが、セクシャル・マイノリティとかLGBTとかそういう現代の「社会問題」の話ではなく、あるいは「個人と社会の軋轢」の話ですらなく、その魂の求めるところが世界とはぐれてしまった、「ひとり」と「ひとり」の孤独な存在が、互いの中に「在るべき場所」を見出していく、という話でした。これをそのように全うして描きつつ、さりとて切り離しすぎたあまりに現実から遊離して「昔話」になってしまわないように、それこそガラス一枚の距離感に封じ込めること。これを見事に成し遂げたのが、監督、原作からの脚色、撮影、それに加えて極めて印象的な衣装と、映画が終わった後も心に残り続ける音楽、そして何よりふたりの女優の素晴らしい演技であって、アカデミー賞6部門ノミネートというのもまったくもって順当な、というか全部受賞しても何も驚くには当たらないような、本当に素晴らしい作品でした。

あまりに素晴らしかったので、観終わった後の帰り道、iTunes Storeでサントラをダウンロード購入してすかさず聴きながら、そうだ原作も読もうと思ってAmazon.comに行って検索したところ、「Genre: Lesbian Fictions」という間違ってはないけれどあまりといえばあまりにストレートな分類にやられて、少しばかり夢から覚めたような心持ちになりました。ということで原作はまだ読んでいません。

[movie] ブラック・スキャンダル

ジョニー・デップ主演、スコット・クーパー監督の、「実話に基づく」です。(またか。)

ボストンのアイルランド系住民で、幼い頃に絆を結び、今はそれぞれ別の道を歩んでいた3人、ギャングのボスとなったジミー・バルジャー、その弟で上院議員のビリー・バルジャー、友人でFBIの捜査官になったジョン・コノリーの人生が再び絡み合って、というお話です。

このジャンルは『ミスティック・リバー』とか『スリーパーズ』とかの傑作が記憶に残っているので大変ですよね。※なお「このジャンル」というのは「ケビン・ベーコンもの」のことです。

ちなみに「実話に基づく」とは言え、ポスターには「Based on Book」なんていう書き方がしてあって、実際にはDick Lehr とGerald O’Neillによる「Black Mass」というドキュメンタリーが原作になっています。映画も、原題は『Black Mass』ですね。

さて、中身ですが。

この映画のジョニー・デップは、どうしても頭部のバーコードっぷりが目立つんですが、実に凄みと深みのある演技をしていて、目の下の隈取りがなくても、ドーランを塗ってなくてもちゃんと存在感のある演技ができる、ということを改めて証明しています。批評家筋でもキャリア・ベストという声がちらほらあるくらいで、何というか、キャラクターではなく、「人物」を演じている感じ。

ちなみに弟役を演じるベネディクト・カンバーバッチとはあまり濃い絡みがないんですが、兄のジミーと、対照的に「正しい人」であるビリーとの関係は、淡々としながらも非常に堅い絆であって、劇中、二人が絡む最後の場面である電話のシーンはそれを見事に描き上げています。こういうベタベタしない兄弟は尊いし、ああいう「さらっと固い」みたいなのは非常に好ましいです。

劇中には他にもいろんなドラマがあって、特に主人公であるジミーの愛情と孤独、家族の喪失と、失くした拠り所に対する埋め合わせのように虚しいIRAへの傾倒などなど、じゃあ結局、このジミー・バルジャーという男は「何だったのか」、そして監督は何を描こうとしていたのか、というのが一見して掴みづらい、なんとも紛糾した感じに仕上がっています。ある意味、最近書いてきた流れで言えば、「実話に甘えて」そのまま放り出しているようなところがあるわけです。描くのではなく、ただそのまま提示する、というか。

しかし、この丸投げに意図がないかというとそうではない気がしていて。

ここでタイトルの話に戻るんですが、Black Massというのは、日本ではむしろ「黒ミサ」という言葉で知られていますが、要は反キリスト的、悪魔主義的な祭礼であったり、集会であったり、あるいは秘密裏に行われる結社の儀式です。このポイントは『ブラック・スキャンダル』という邦題では薄まってしまうのですが、この言葉の選択には割と大きな意味がある気がしていて、黒ミサであれ反キリストであれ、本来のミサあるいはキリスト教という枠組みがまずありきの構造で、それに反発し、それを歪曲し、それを憎悪して揶揄することをその「冒瀆」の核にしているがゆえに、むしろそういう本来の価値観に不可避的に根ざしてしまっている、というような含意が底にあるように感じられるわけです。

劇中、何度も出てくる教会のシーンもその辺りを補強しているような気がするんですが、そう思うと、そうした信仰であったり正しい道であったり、そういった善なるものを対比の軸に置きつつ、一人の人間として家族を深く愛しながらすべてを失っていったジミー・バルジャーと、イタリアン・マフィアを放逐するという正義を目指していたはずのジョン・コノリーの間に、この、実に黒々とした「Black Mass」が生まれ、何もかも飲み込んでいった、という、如何ともしがたい「大きなうねり」とそれに取り込まれた人の「魂」、そして流された果てにそこに生じてしまった、魂の「あるべきところからの距離」または「断絶」といったことがひとつのテーマなのではないかと思います。

そう捉えると、何というか極めて救われない話なんですが、しかしエンディングで淡々と提示される事実には、救済とは言えないまでもほのかな光が残っている気もします。

今作は「登場人物のその後を語る」という、おいおいそれをやるか、という終わり方をしていくんですが、そこで語られる「事実」は、単なる添え物的な「後日談」を超えて、ストーリーとしてのテーマに帰結しています。そこで提示されている、弟であるビリーと、友であり共犯者であったジョン・コノリーの「その後」は、結局どちらも、最後までジミーを「売らなかった」ということを意味しているわけです。後者はまぁ報復を恐れて、ということかもしれませんが。結果としてそこに残ったままの絆が、この映画が最後に目を向ける部分なんですね。

そのことを、それぞれ存命である、現実に存在している3人が互いに知って、互いに黙したまま、抱えたまま、今は別々に生きている、というのは、何となく、ただただ長い溜息が漏れるような話です。

そんなケビン・ベーコン・ムービーでした。

[movie] ブリッジ・オブ・スパイ

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また! またしても「実話に基づく」!!

まぁスピルバーグは別枠ということでもいいんですが、さすがに最近多すぎて、フィクションとしての映画が、実話に基づくものと完全に現実から離れたSFやファンタジーやスーパーヒーローものに二極化しつつあるのではないかと妙な不安を覚えなくもありません。まぁそれならそれで個人的には気にせず楽しめはするんですが。

それはさておき、『ブリッジ・オブ・スパイ』ですが、監督がスピルバーグ、主演がトム・ハンクス、脚本がコーエン兄弟、ということで、これで駄作ができてきたらむしろ驚くという感じの製作陣なのですが、期待に違わぬ堅い作りの作品でした。

ただそりゃそのメンバーならそうだろ、というところはあって、主観的な満足度が高かったか、というと、必ずしもそうでもなく。喉越しが良すぎるというか、ストレート、ストレート、ストレート、三球三振、はい終わり!みたいな感覚があります。(142分もあるのに)

『リンカーン』でスピルバーグ+ダニエル・デル・ルイスだった時に普通に圧倒されて蹂躙されまくった記憶がまだ鮮明なので、何がこの違いに結びつくのか、ということを少し考えてみる必要がある気がします。

映画そのものとは少し離れますが、ベルリンは割と馴染みのある街なので、「あそこかよ!」みたいな現実の体験とのリンクが面白かったりもしました。フリードリッヒ通りは出張の時にいつも泊まるホテルのすぐそばだし、劇中でドノヴァンが乗った電車もよく乗るやつで、何というか、「実話に基づく」がボディに効いてくる感じでした。

同日公開で『イット・フォローズ』と『クリムゾン・ピーク』があるので、そっちも早めにと思っています。この後『ザ・ウォーク』も『白鯨との戦い』もあるからね!!(また「実話」)

 

***

(追記) 『イット・フォローズ』観ました。

[movie] 完全なるチェックメイト


またしても「実話に基づく」です。

というか、トビー・マグワイアがチェックメイトする、くらいしか事前情報がなかったので、まさかボビー・フィッシャーものだとは思っていなかったのですが、おかげでとんだ不意打ちを食らってしまいました。

トビー・マグワイアは名演というか、実話だというのに当て書きじゃねえか、っていうレベルではまっているんですが、演技という観点ではライバルのスパスキーを演じたリーブ・シュライバーがなかなか素晴らしい演技をしています。

ただ全体的にいまいち、ちぐはぐ感があるというか、音楽であったり当時の映像クリップであったり、あるいは当時の映像風に加工した映像表現であったり、挿入される様々なものが何となくとっ散らかった印象を残した感があります。プロット的には最後のスパスキーとの決戦というところに収斂していくんですが、その結末の後、映画のラストがまた散らかるというか。

この映画、そもそも邦題の『完全なるチェックメイト』が意味不明なんですよね。クライマックスである24番勝負の第6局は実際にはチェックメイトではなく、スパスキーの投了で終わっていて、映画全体を見ても「チェックメイト」が暗喩として成立するようなモチーフもなく。じゃ、原題はどうなんだ、と見てみると、こちらは「Pawn Sacrifice」で、これも何だかよくわからず。ちょっと調べてみると、監督のエドワード・ツヴィックが「ボビー・フィッシャーもスパスキーも、それぞれアメリカとソ連の間の冷戦でのポーンの一つに過ぎなかった」とか言っているらしく、おいおい、そっちがテーマかよ、と後から悟る羽目に。言われてみればそういうシーン多かったよ!

まぁちょっと根本的に勘違いして観ていたようなので感想も的外れになってしまう気がしますが、とりあえず、その第6局はよかったです。『セッション』を観た時に「音楽というもの」という概念がキーになって、というところがあったわけですが、ある意味で、それに通じるような「チェスというもの」「チェスプレイヤーという人々」という概念レベルでの共鳴をほのかに感じさせる部分があって、そういうのはやはり大好物なので。

というわけで、トビー・マグワイアがチェックメイトしなかったわけですが、そうかーボビー・フィッシャーかー、というような歯切れの悪さを残してとりあえず記事を閉じることにします。(なんだそれ)