[movie] コップ・カー

Cop Car

ジョン・ワッツ監督、ケビン・ベーコン主演の「悪ガキがパトカーを盗んだら持ち主のケビン・ベーコン(口ヒゲ付き)に追いかけられた」という、何というか、それ以上の何の説明もいらない素晴らしい1行プロット作品です。もうこの時点で傑作確定で、あとはもう、どのくらいのケビン・ベーコン・ムービーであるか、という一点に尽きるわけです。

そもそもケビン・ベーコンといえばケビン・ベーコン指数0を誇る、全宇宙にただ一人の存在であって、まさに唯一無二の俳優であるわけすが、本作は彼がエグゼクティブ・プロデューサー兼任の主演であって、要するに、ケビン・ベーコンの、ケビン・ベーコンによる、ケビン・ベーコンのための映画にほかなりません。当然ながら観る方にもそれをわきまえた謙虚な姿勢が求められます。ここから先はすべてその上で、の話です。

この作品、観る前は、必死に逃げ惑う悪ガキにケビン・ベーコンが迫る!危機に次ぐ危機!ついに追いつめられた絶体絶命の少年たちの逆転のチャンスは?みたいな話かと思ってたんですが、ぜんぜんそんなことない、というのがさすがケビン・ベーコンですね。そもそも、開幕初手から悪ガキに対する感情移入をきっぱりお断りする導入になっています。清々しいまでのクソガキっぷり。まぁそもそも愛すべき少年たちを主人公に据えた王道のサスペンスとか、何もケビン・ベーコンの手を煩わせる必要などないんでした。いやぁ、うっかりうっかり。

というか、むしろこの作品のサスペンスは子供たち本人そのものにあるんですね。悪徳警官であるケビン・ベーコンの車にはあれこれとやばいものが積んであるんですが、アサルトライフルを持ちだして銃筒を鷲掴みにして持ち歩くわ銃口を覗き込むわすぐ人に向けるわ、挙げ句の果てには相棒にケブラーベストを着せて試し撃ちしようとするわ、というありえない行動のオンパレード。ああ、悪人が!子供が危ない!逃げて!と子供に感情移入させて危機感を煽る、みたいな当たり前のことはしないケビン・ベーコン。アホかこの糞ガキ!危ねえからやめろ!つかもうお前死ね!という、子供に対する怒りさえも生じさせながら危機感を爆発させるケビン・ベーコン。ケビン・ベーコンがエグゼクティブ・プロデューサーということの意味を読み違えてました。いやぁ、うっかりうっかり。

さらにケビン・ベーコン自身も、まったく良心など微塵も感じさせない徹頭徹尾の悪党で、登場してからしばらくの間は、もう本当にピュアな悪人として存在感を主張しまくるんですが、彼の「コップ・カー」がガキどもに盗まれてからは、それはもう、もの凄い勢いで空転し始めます。ランニング姿で荒野を走る姿も、とりあえず人里にたどり着いてから車を盗むシーンも、そしていよいよ無線でガキどもに呼びかける、というシーンも、極悪人の真剣な殺気が篭っているんですが、まったく何とも噛み合わせてこないんですね。といって完全にコミカル狙いかというと必ずしもそういう演出方向でもなく、観る側を当惑させるレベルで、極上の一人芝居を意図的に上滑りさせていきます。この居心地の悪さ。さすがケビン・ベーコンです。スリラーでもなければコメディでもないんですね。たしかに、そんな紋切り型のものをケビン・ベーコンが作るわけないんでした。いやぁ、うっかりうっかり。

で、一通りうっかりしたあとで振り返ると、この映画の不思議な魅力は、あるいは、ケビン・ベーコン・ムービーであることを差し引いた後にこの映画に残る要素は、「機械的」というか何というか、情感であるとか、あるいは「物語性」といったものを介在させない、物理エンジンで遊ぶタイプのゲームのような、ソリッドな「無機物性」であるような気がします。シチュエーションを組み立てて、悪ガキとケビン・ベーコンと、おじさんとおばさんと金魚を組み合わせてスイッチを押して起動しました、というようなかっちりした作りの「装置」の動きを楽しむような味わいといったらいいんでしょうか。

もちろん、物語の結末に向けた流れというのはあって、悪ガキにも見せ場はあるわけですが、そもそも感情移入を最初からお断りしているような作りなので、あまりビルドゥングスロマンといった趣でもなく、そもそも改めて考えるとガキの方は、潔さすら感じるほどにすっぱりと、何の反省も成長もしていません。これはある意味、すごいことであると思います。映画全体が、何の情感にも人物の魅力にも依存せずに、純粋に絵とプロットの組み上げで構成されていて、それがちゃんと作品として成立しているわけです。この辺の技量が、監督を務めたジョン・ワッツがこの後いきなり『スパイダーマン:ホームカミング』に抜擢された理由なのかもしれません。

あ、あと、警察無線のオペレータで声だけの役で婦人警官が出てくるんですが、これをやってるのがケビン・ベーコンの奥さんのキーラ・セジウィックで、そんなところまで徹底しているケビン・ベーコンっぷりに痺れます。とりあえずケビン・ベーコンもこれでけっこう気が済んだと思うので、またいろんな映画に出張してきてほしいところです。『トレマーズ』リブートなんて話もありますしね。

 

ちなみに字幕は西村美須寿さんでした。

[movie] ブラック・スキャンダル

ジョニー・デップ主演、スコット・クーパー監督の、「実話に基づく」です。(またか。)

ボストンのアイルランド系住民で、幼い頃に絆を結び、今はそれぞれ別の道を歩んでいた3人、ギャングのボスとなったジミー・バルジャー、その弟で上院議員のビリー・バルジャー、友人でFBIの捜査官になったジョン・コノリーの人生が再び絡み合って、というお話です。

このジャンルは『ミスティック・リバー』とか『スリーパーズ』とかの傑作が記憶に残っているので大変ですよね。※なお「このジャンル」というのは「ケビン・ベーコンもの」のことです。

ちなみに「実話に基づく」とは言え、ポスターには「Based on Book」なんていう書き方がしてあって、実際にはDick Lehr とGerald O’Neillによる「Black Mass」というドキュメンタリーが原作になっています。映画も、原題は『Black Mass』ですね。

さて、中身ですが。

この映画のジョニー・デップは、どうしても頭部のバーコードっぷりが目立つんですが、実に凄みと深みのある演技をしていて、目の下の隈取りがなくても、ドーランを塗ってなくてもちゃんと存在感のある演技ができる、ということを改めて証明しています。批評家筋でもキャリア・ベストという声がちらほらあるくらいで、何というか、キャラクターではなく、「人物」を演じている感じ。

ちなみに弟役を演じるベネディクト・カンバーバッチとはあまり濃い絡みがないんですが、兄のジミーと、対照的に「正しい人」であるビリーとの関係は、淡々としながらも非常に堅い絆であって、劇中、二人が絡む最後の場面である電話のシーンはそれを見事に描き上げています。こういうベタベタしない兄弟は尊いし、ああいう「さらっと固い」みたいなのは非常に好ましいです。

劇中には他にもいろんなドラマがあって、特に主人公であるジミーの愛情と孤独、家族の喪失と、失くした拠り所に対する埋め合わせのように虚しいIRAへの傾倒などなど、じゃあ結局、このジミー・バルジャーという男は「何だったのか」、そして監督は何を描こうとしていたのか、というのが一見して掴みづらい、なんとも紛糾した感じに仕上がっています。ある意味、最近書いてきた流れで言えば、「実話に甘えて」そのまま放り出しているようなところがあるわけです。描くのではなく、ただそのまま提示する、というか。

しかし、この丸投げに意図がないかというとそうではない気がしていて。

ここでタイトルの話に戻るんですが、Black Massというのは、日本ではむしろ「黒ミサ」という言葉で知られていますが、要は反キリスト的、悪魔主義的な祭礼であったり、集会であったり、あるいは秘密裏に行われる結社の儀式です。このポイントは『ブラック・スキャンダル』という邦題では薄まってしまうのですが、この言葉の選択には割と大きな意味がある気がしていて、黒ミサであれ反キリストであれ、本来のミサあるいはキリスト教という枠組みがまずありきの構造で、それに反発し、それを歪曲し、それを憎悪して揶揄することをその「冒瀆」の核にしているがゆえに、むしろそういう本来の価値観に不可避的に根ざしてしまっている、というような含意が底にあるように感じられるわけです。

劇中、何度も出てくる教会のシーンもその辺りを補強しているような気がするんですが、そう思うと、そうした信仰であったり正しい道であったり、そういった善なるものを対比の軸に置きつつ、一人の人間として家族を深く愛しながらすべてを失っていったジミー・バルジャーと、イタリアン・マフィアを放逐するという正義を目指していたはずのジョン・コノリーの間に、この、実に黒々とした「Black Mass」が生まれ、何もかも飲み込んでいった、という、如何ともしがたい「大きなうねり」とそれに取り込まれた人の「魂」、そして流された果てにそこに生じてしまった、魂の「あるべきところからの距離」または「断絶」といったことがひとつのテーマなのではないかと思います。

そう捉えると、何というか極めて救われない話なんですが、しかしエンディングで淡々と提示される事実には、救済とは言えないまでもほのかな光が残っている気もします。

今作は「登場人物のその後を語る」という、おいおいそれをやるか、という終わり方をしていくんですが、そこで語られる「事実」は、単なる添え物的な「後日談」を超えて、ストーリーとしてのテーマに帰結しています。そこで提示されている、弟であるビリーと、友であり共犯者であったジョン・コノリーの「その後」は、結局どちらも、最後までジミーを「売らなかった」ということを意味しているわけです。後者はまぁ報復を恐れて、ということかもしれませんが。結果としてそこに残ったままの絆が、この映画が最後に目を向ける部分なんですね。

そのことを、それぞれ存命である、現実に存在している3人が互いに知って、互いに黙したまま、抱えたまま、今は別々に生きている、というのは、何となく、ただただ長い溜息が漏れるような話です。

そんなケビン・ベーコン・ムービーでした。