[movie] ルーム

Room

レニー・アブラハムソン監督、ブリー・ラーソンおよびジェイコブ・トレンブレイ主演による、エマ・ドナヒューの同名小説の映画化(ドナヒュー自身が脚本)です。小説版についてはいわゆる「フリッツル事件」に着想を得た、と言われているようなのですが、ドナヒュー本人はイギリスのガーディアン紙の取材に答えて「その事件をベースにした、と言われるほどのレベルだとは考えていない」と述べているので、ここ最近の「実話に基づく」シリーズからは外れる、純粋な「フィクション」、ということになります。

しかし「フィクション」とはいえ、描かれているのは未成年の拉致監禁に端を発する非常に痛ましい事件であって、正面から受け止めるとなかなか重たい話であることは間違いありません。例によって「覚悟」して臨んだのですが。

基本的には子供の側(ジェイコブ・トレンブレイ演じる5歳の男の子ジャック)の視点に立つ形になっているので、全体としては観る者の精神をごりごり削るような作劇ではありませんでした。ごりごり来るなら来るで、それはそれで受けて立つ所存ではあるのですが、原作・脚本のエマ・ドナヒューも監督のレニー・アブラハムソンも変に色気を出さず、描こうと思ったものにしっかりと集中した形になっていて、かつ、それを受けて、メイン・キャストの二人が非常に丁寧というか、その作り手の意図を忠実に汲み上げるような演技をしており、ドラマが非常にスムーズに染みこんできました。

とはいえもちろん、喉越しの軽い、当り障りのない作品ということではまったくなく、先日の『Mr.ホームズ』でも感じたところではあるのですが、とにかく「子どもの眼差し」とか「子どもの叫び」というのは本当に「刺さる」んですね。ジャック役のジェイコブ・トレンブレイ君の演技は本当に凄まじくて、『ザ・ウォーク』を観て以降、何かにつけ「NoooooO!!」と心のなかで叫んでいた自分が、今は事あるごとに「No way!!」とか「I hate you」とか心のなかで叫ぶようになっているので、ある意味、ジョゼフ・ゴードン・レヴィットにも勝っているといっても過言ではないでしょう。

そしてそのジェイコブ・トレンブレイと、母親ジョイを演じるブリー・ラーソンのこれまた卓越した演技(本作でアカデミー主演女優賞を受賞)を素材に、本作をさらに一層高い次元に押し上げているのが、撮影監督のダニー・コーエンであると思います。

親子が「Room」に監禁されている前半では狭い空間の閉塞感、そしてそこで生まれてそこを世界のすべてだと認識しているジャックの視点を、暗い寒色のトーン、低い位置からの狭めの画角、というベースで統一してきっちり描いているわけですが、さらに、被写界深度もかなり浅く設定されていて、たとえば近距離で写される母親ジョイの顔が、ささいな身じろぎによって微かに焦点から外れたり戻ったり、という見た目の不安定さにつながっています。彼女の生々しい慄きのようなものが「絵」だけで伝わるように撮影されているわけです。

そして一方、世界が解放された後、一夜明けてからの画面のトーンは一変し、時には明るい色調の画面でジャックが自由に動き出します。広い画角のショットや引きのショットが増えてきて、「ジャックとママの世界」だった主観の構図から一転、「世界の中にいるジャック」という客観の構図になります。これもまた非常に効果的で、たとえば廊下の向こうからジャックと祖母ナンシーを捉えた「I love you Grandma」のシーンは、遠間からの自然な視点で写すことで、ジャックが「観る者が属している側のこちらの世界」の中で改めて人とつながろうとする、というシーンになっていて、つまり「客観視」できるがゆえに逆に観るものの懐に飛び込んでくるように構成されているわけです。特殊な環境に置かれたジャックの主観的一人称によるジャックの話であった前半から、「彼はもう観ているあなたと同じ、この世界に帰ってきていて」、「これはあなたの世界の話になっている」んですよ、と。客観視点になることで、話が観客側に一歩迫るという構造なわけです。

ちなみにこのシーンについてはナンシー役ジョアン・アレンの演技も素晴らしくて、「I love you Grandma」と言われた瞬間、ふっと微かに硬直するんですよね。不意に心臓に何かを刺された人が咄嗟にたじろぎつつもそれを相手に悟らせないようにするような、「I love you too」までの間のほんのわずかな「間」が、その三人称の構図の中で、「二人」の間にさざ波のように立ち上がる「あや」として伝わってきます。

こういった、「まさにちょうどその場に居合わせて」「それでいて寄り添うというよりはやや離れたところで、脇から見ているような」視点は、ウィリアム・H・メイシー演じる実の祖父ロバートが絞り出す「I can’t, I can’t… I’m sorry」というセリフであったり、祖母ナンシーの現在のパートナーであるレオの、ジャックに対する関わり方であったり、あるいはジョイとナンシーという母子の激しいぶつかり合いのシーンといった様々な場面を捉えながら、彼らが「Room」を出て、特殊な体験をした個人の主観から解放され、世界の中にぽつんと取り出された「受動的に疎外される異物」という立場から改めてスタートした新しいフェイズの物語を、主張しすぎることなく、それでいて巧妙に、流れるように描いていきます。

そして最終的に、「この世界」の中に取り込まれたジャックをつかず離れずで追っていくこの視点による物語の流れは、最後のシーンの「Room」に戻ることで、ひとつの大きな環のように閉じられることになります。名残惜しむようなジャックの視点がもう一度、枯れてしまった植物、イス、テーブル、ワードローブ、シンク、そして天窓に向けられた後、実はあまりにも小さかった「Room」が、改めて現在のジャックが属している大きな世界の視点の中に収まり直すわけですが、ここでの物語全体の最後の決着はジャックが促す形になっていたりします。

個人的にはここも、この作品の非常に重要なポイントだと思っています。前半と後半では観る側の懐で何かをひっくり返すような主観と客観の転換が行われるわけですが、もうひとつ、同じように構造上の転換点がこの物語にはあって、最後のこのシーンの「結び」と、そこにつながっていく起点としての出てくる「ジャックの髪の毛」が、ふたつの支点として作品中の「力学的均衡」をぐるりと回転させているというか。

前半の監禁生活の中では、視点がジャックからの主観であることもあり、彼を守る母であるジョイの強さがいささかの危うさと脆さを予感させつつも世界を支えている構造になっています。ジャックを育て、守り抜き、そしてついに脱出に成功させるまでの世界は、ジャックのためにジョイが支え抜いた世界でもありました。しかし、脱出した後の大きな世界の枠の中ではジョイ自身も、崩れ落ちる寸前までにひび割れた小さなひとつの魂でしかなく、戻ることによってまざまざと思い知らされた自分が失ったものや、元々はそこにいたはずの本来の世界で手にできていたであろうものに打ちのめされ、そしてついに、監禁されていた「Room」の中で成立し、彼らを守り支えていたその「構造」自体に対する、侵害的とも言えるような客観的批判のために、彼女はついに「折れて」しまいます。

一方、監禁中にジョイがジャックに教え込んでいた「ジャックの髪には強さが宿っている」というプロットは、旧約聖書の中のサムソンという英雄がいて、この無敵の勇者の力の源が彼の髪の毛で、というエピソードが下敷きになっているわけですが、前半においてはジョイがジャックを育て、支えていく中で、彼が強くあれるようにという望みから生みだされた「仕掛け」として位置づけられています。しかし、解放後に彼女の心を折ってしまうこのインタビューのシーンによってジョイに対する断罪の視点が導入されることで、この仕掛けについても、その枠組みの中における逆転的な様相を露わに帯びてきます。強くあるように、というジャックに対するジョイの願いの裏には、むしろジャックの存在に依存する自分自身のためにこそその強さが必要だったという面があり、それは、依って立つための支えをジャックに仮託することでもあった、という転換によって、自己犠牲の聖性がさりげなく剥奪されているわけです。

ジョイがジャックの存在という一点に自分たちの世界すべてをゆだねる中、狭窄的に湾曲した小さな世界の中でジャックを支え、そしてそれによってジョイを支え、さらにそれによって「Room」全体を支えるための「呪具」として作られ、5年の歳月をかけて育ってきたその「長い髪」は、彼らの解放後、転換を迎えた世界において、ジャックの意志で、ジョイを支えるために手離されることになります。歪んだ世界の中で世界を支える中核であったそれは、囚われていた構造から解き放たれて「聖具」として昇華され、それを作ったジョイの手に還り、彼女と、彼女を取り巻く世界との和解を調停する役割を果たすのです。ある意味、主観だけの世界の中で必要に駆られて捏造された我執の象徴が、客観的な世界の中で転換され、そこで生きるひとりの個人から別の個人へと伝わっていくことのできる普遍的で自由な「想い」として、母と子と、それを取り巻く世界を改めて繋ぎ直していくわけです。それは物語において、作品の構造自体が閉じた主観の構図から開けた客観の構図に転換する中、歪みの中に囚われた個人の中に人工的に作られた特異点のような「強さ」が、個人同士がつながる家族や社会へと開いていくインターフェイスである「優しさ」に生まれ変わる瞬間のようにも思えます。

そしてこの展開がジャックの方からジョイに向けて行われることで、批判と反省に晒されたジョイに対する物語上の「赦免」が達成されているからこそ、最後のシーンでやはりジャックに促される形での「Room」との決別において、ジョイは再びジャックと同じ場所に立って、ジョイを受け入れたジャックと同じく、彼女自身も世界を再度受け入れて、ともに歩んでいけるようになるわけです。そして、「Room」の底から天窓を見つめる主観から始まったこの物語は、彼ら親子を脇から見守る客観の視点を経た上で、それらすべてを俯瞰する、浮上していく天からの視点に還っていって幕を閉じていくことになります。

書いているうちにかなり暴走してしまった感がありますが、それだけ語りたくなるような大きな何かを観るものの心に置いていく映画だったということでしょう。これだけ書いてもまだ、本作中最も熱い感動を呼び起こすシーンである「脱出」のシーンについてはまったく触れていないわけで、その中心人物であった女性警官を含む、彼ら親子の人生に登場した善なる人々のことも忘れてはいけない大きな要素なんですが、観た人にとっては言わずもがなでもあるような気がするのでそれはおくとして、ここらで締めておきたいと思います。実にいい作品でした。

なお、字幕は稲田嵯裕里さんでした。稲田さん、今年2本目なんですが、1本目は『エージェント・ウルトラ』なんですよね。懐が深いというか幅が広いというか。

 

[movie] リリーのすべて

The Danish Girl
トム・フーパー監督、エディ・レドメイン主演の、世界で初めて「生得の性別を変える」手術に臨んだ人物、アイナー・ヴェイナーとその妻ゲルダを描いた「実話に基づく」ドラマです。字幕は松浦美奈さん。

実は、この作品については長いこと予告編を見せられ続けているうちに、観る前からけっこうしんどくなっていたんですが(エディ・レドメインのつらそうな涙が精神に堪える)、ようやく公開されたということで覚悟を決めて臨んだのですが。

やはり心に堪える作品で、最終的には、非常に美しい、どこかしら清浄な光を思わせるようなエンディングを迎えるものの、そのあとにはやはり、彼らが負った傷や抱いた苦しみの重さのようなものが残ります。

特に今作でアカデミー助演女優賞に輝いているアリシア・ヴィキャンデルが演じる「妻」であるゲルダは、「愛する夫」の内面から芽吹き、生まれてくる「まったくの別人である」「新しい女性」への困惑と受容、理解と隔絶、それに対面する自らの強さと弱さの間に揺れ惑うひとつの魂として、つらくなるほどに鮮やかに描かれています。

もちろん、自身の中に「女性」をはらんでしまった「男性」としての苦悩を直接負っているアイナー(リリー)も、その痛みの重さと深さ、そしてそれを演じるエディ・レドメインの卓越した演技力という点において、実に一歩も譲るところはないのですが、個人的にはこの作品で一番重く響いたのは、ゲルダの方でした。

たとえば『キャロル』をフェミニズムや同性愛といった軸から捉える視点と同じように、この『リリーのすべて』をトランスジェンダーという観点から見つめることは極めて妥当なことであろうと思うのですが、個人的にはどちらの作品もそういった「枠」を越えた、普遍的な人間の魂の物語であるような気がします。『リリーのすべて』、というタイトルではありながらも、これはリリーとゲルダのふたつの魂についての物語ではないかと。

その観点で見ると、女性として「生まれる」ことに対する無垢な期待感と希望に、幼いとさえ言いたくなるような純粋さですべてを委ねようとするリリーと、その後に残され、「愛する夫と生きる日々」という「これまでの自分が選んだ現実」を手放し、「愛した者が消えてしまった日々」という「新しく強制された現実」を受け入れようとするゲルダの対比は、光と影を隣り合わせに並べるかのように残酷でもあります。

アイナーの方は、リリーという名の女性としてまったく別の存在になろうとし、むしろ「アイナーである自分」や「アイナーであった人生」を、耐えうるべからざる苦しみとしてそこから解き放たれようとするのですが、そうして捨てられようとする「彼」の姿も形も、そこにいたるまでのすべての時間も、ゲルダの方から見ればすべて彼女の人生と魂から連続してつながっていたはずのものであり、昨日までと同じように、同じ姿でそこに存在するにもかかわらず、突然「断絶」してしまう、途方も無い喪失を彼女は受け入れなければならなかったわけです。その構図は、最終的にはゲルダの選択として追認される形ではあるものの、ある意味、どこまでも一方通行的です。そして、個人的にはこの、他に選択肢のない、激しく厳しい「一本の筋書き」に対する「主体」と「客体」としてのリリーとゲルダ、というのがこの作品の大きなモチーフであるような気がするわけです。

別の言い方をすれば、リリーは「願いを叶えて旅立った魂」であり、ゲルダは「願いを諦めて見送った魂」なわけです。そして、お互いのその決断の一点において、そこにいたるまでに自らのうちに得られなかったものを手に入れようとするリリーと、そこにいたるまで自らのかけがえのない一部であったものを手放すことになるゲルダの、それぞれの人生の致命的な交錯のような瞬間を象徴しているのが、駅での別れのシーンだと思うのですが、リリーを見送ったのち、真っ直ぐに、足早に歩くゲルダの姿は、砕け散ろうとする何か大きなものを必死で繋ぎとめようとする内面が蒼ざめた凄みとして滲んでいるようで、さすがにこれを見せられるとアカデミー助演女優賞はアリシア・ヴィキャンデル以外に与えようがない、という気になってきます。

さて、もう一方のリリーですが。

この作品、予告編でリリーのセリフとして「I love you, because you are the only person who made sense of me. And made me possible」という非常に印象深いフレーズが出てきていました(本編では出てきていないと思うんですが)。それを予告編で聞いていた時点では「No one else made sense of me」というリリー寄りの捉え方で「おおおお何というセリフだ」とぐっと来ていたんですが、本編を観た後では「Is that the only reason you love her?」というようなゲルダ寄りの(極めておせっかいな)観点が生じてきていて、ちょっと印象が転換した感があります。そして、この転換した後の印象自体も、もうひとつの作品のテーマに絡むような気がしています。

この予告編のセリフから感じた個人的なもやもや感のようなものは、リリーの悪意からではなく無垢さから来る「自分のことだけを中心にした視点」から来ていると思うんですが、原作からなのか脚本なのか監督なのか、とにかくリリーについては「子供のような純粋さ」が随所にあらわれる描かれ方をしていて(それがまたチャーミングなわけですが)、最終的にはあたかも「誤って地上に生まれてしまった純粋な魂がひとときの苦しみを越えて天に帰っていった」かのような結末を迎えます。その流れの末に、ラストシーンで風にさらわれた形見のスカーフに対してゲルダがおもわず叫ぶ「No, leave it! Let it fly!」というセリフも、そんな人智を超えた「天の配剤」を受容するような意味合いを帯びて響いてくるわけですが、正直なところ、神ならぬ人の身でそれを受け入れるゲルダを、あるいは「受け入れてしまった」彼女を、観る側としてはなんとなく受け入れそこねてしまった感があったりもします。単純に言うと、そりゃあんまりじゃないか、というか。

しかし、それがこの作品の自分なりの捉え方で、かつ、自分という受け手に対するこの作品の形なのだろうということで、意外と不愉快ではなく、むしろそういう作品としてより深く響いている気もします。生まれたばかりのリリーの愛らしさや健気さに母性本能的な何かをくすぐられて彼女の願いを叶えてやりたいと共感する部分に騙され切らず、この開花しなかったカタルシスのつぼみのようなものが、この作品が自分に残したものなのかと。

そんなわけで、感想としてもあまり綺麗に整理しきれないままではあるのですが、そういうことでよしとしようかと思います。あと、この映画については監督の名前がとっさに出てこず、あろうことか「トビー・フーパー?」などというおよそ考えうる中で一番ギャップの大きい過ちを犯してしまったことについては、ここで正式に懺悔しておきたいと思います。