[movie] シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ

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ルッソ兄弟を監督に迎え、いよいよ脂が乗り切ってきた感のあるマーヴェル・シネマティック・ユニバースの最新作『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』、シリーズとしては『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』に続くキャプテン・アメリカのシリーズですが、アイアンマンを始めとするほぼフルキャストで、ストーリー的にも『エイジ・オブ・ウルトロン』を受けて展開する、まさにMCUの中心線、根幹となる作品です。

この作品についてはゴールデンウィークの公開に向けて、かなり前から大々的に売り出されていて、それこそ恐ろしい数の予告編を、目を閉じ耳を塞いでやり過ごしてこなければいけなかったのですが、それでも微かに聞こえてくる「Sometimes I want to punch in your perfect teeth」とか「So was I」とか、トニー・スタークのセリフが突き刺さってきて、それはそれは辛い日々でした。何というか、言葉しか入ってこない分、かえって響くというか。100%素で、演技などしていないかのように錯覚しがちなロバート・ダウニー Jr. ですが、声だけ取り出すと俄然際立ってくるところがあって、その確かな演技力に危険なレベルの「やるせなさ」をひしひしと感じていたわけです。

ただまぁそれゆえに、準備運動的な状況も発生していて、本作のエモーショナルな部分はすでに「展開」が済んでいたというか、逆に蓋を開けてみると、それ以外の部分、ユーモアであったり脚本のキレであったりアクションであったりバトルシーンであったり、そういうところの圧倒的なレベルの高さが前にせり出してきて、出したお金に見合う以上の物凄い「クォリティの塊」がどんどん流し込まれてくる極上のエンターテイメント経験でした。もはや肌が潤うレベル。

特に序盤のカーチェイスは、カーチェイスに「走るスーパーヒーロー」が混ざるという、シンプル極まりないにも関わらず、抜いた度肝をそのままがっちり掴んでいくような素晴らしい構成になっていて、シリーズを重ねながらちゃんと一段ずつ自分で上げたハードルを越えていく、信頼感さえ覚えさせる偉業には敬服するほかなく。

他にも空港のシーンでの、アイアンマンのスーツにアントマンが侵入するという大喝采もののアクションプロットとか、スパイディの絡ませ方とか、ユーモア方面では「浮いてるだけで面白いヴィジョン」とか車の中でのサムとバッキーとか本当に全編にわたって拾いどころが盛りだくさんで、それはもう気持ちよく楽しんでいたわけですが。

そのままでは終わらないのが最近のMCUです。

最後の展開がもうエモくてエモくて、本来なら使いたくない「エモい」という言い回しを重ねて使わざるを得ないレベルでエモいです。ほんとに。

最後のバトルは、バトル自体も非常に「魅せる」作り込みがされているんですが、やはり最後の最後。キャップに組み敷かれたトニーが思わず首を庇うシーン。命を取られると思った自分自身、それは裏返せば自分は殺すつもりだったということを悟り、同時に相手は殺し合いではない「何か」として戦っていたということを理解し、それでも許すことができず、盾を捨てていけと吐き捨て、相手はそれさえもただ受け入れて去る。あんなに「おもしろ要素」山盛りでサービス精神に溢れかえってた作品が、こんな酷な終わり方をするなんて。

そして畳み掛けるように「鍵は変えてくれてもいい」とか、何のラブストーリーだよ、という真の幕引き。「キャプテン・アメリカ」のシリーズなので、主人公である本人がおいしい感じになるのは仕方ないと思うんですが、これじゃ残されたヒロインのトニーが心を残してしまうじゃないか!みたいな義憤すら覚えます。出ていくならちゃんと振ってやれよ、みたいな演歌の世界というか。

とはいえMCUのメインの話はまだまだ続いていくわけで、この先の展開でまた「アセンブル」する必要があるので、ここは社長に堪えてもらいつつ、『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』に向けた今後を楽しみにしていきたいと思います。

なお字幕は林完治さんでした。また今作は一回目はレーザーIMAXで公開日に2回観るという僥倖にも恵まれ、関係各位には改めて感謝の意を表したいと思います。おかげで『アメリカ・ワイルド』という、そうでなければ巡り会えなかったであろう作品にも出会えました。僥倖々々。

[movie] ちはやふる ー 上の句 ー

ちょっと順番が前後してしまったのですが、滅多に邦画を観ない私が、世間(の一部)に漂うあまりに不穏な空気にいても立ってもいられなくなって憚りつつ劇場に足を運ぶことになった(そしてその後通算5回運ぶことになった)作品、『ちはやふる ー上の句ー』です。(実際には前二つの『レヴェナント』と『ズートピア』の前に観てました。)

もう一度書きますが、私は滅多に邦画を観ません。好き嫌いというほど強い話でもないのですが、そもそもアンテナをハリウッド方面にしか張ってませんし、たまたまWOWOWなんかでちょっと前の話題作なんかを目にしても、やはり何となく波長を合わせ切れないなぁということが多いので、どうしても足が遠のくというか食指が伸びない感が年々深まっていたところでした。そしてこの作品にもその「波長が合わない」ところは結構あって、率直なところ、作品自体の客観的な完成度とかについては一言ならず言いたいことがあるんですが、それでも。

これを書いている現時点で、2016年の劇場公開作は50本ちょっとですが、今のところぶっちぎりのベストです。それも、『スポットライト』や『オデッセイ』を押さえての一位なわけで、これはもう個人的には超弩級の大事変と言ってもいいレベルです。

とりあえず書き終わった時にすっきりしていたいのでまず気になるところから先に書きますが(好物を後に残すタイプ)、やはり邦画において厳然として存在する限界がこの作品にも色々と枷を嵌めている感はあります。特に俳優の演技や笑いの取り方とかの演出が口に合わないというか、たとえば端的にいうと、「何気ない会話」が「ぜんぜん何気なく聞こえない」わけです。

この辺はキャスト陣の経験なのか技量なのか脚本なのか演出なのか監督の演技指導なのか正直何とも言い難い部分ですが、個人的には音声の録り方による部分もあるのか、という気がしています。映画撮影における音声録音とか再現の技術とかそういう方向にはまったく疎いんですが、微妙な違和感というかなんというか。この辺りは今後、テーマとして少し掘り下げていきたいところ。

で、そういったことも含め、特に前半、とにかくいろんなところに少しずつ引っかかる喉越しのせいで、スムーズに没入できない感覚が残ります。「こんなところにマンションできたんだ」とかそういう頭で考えたような「目的」が先に見えてくるような、むき出しのネジのようなセリフはいらないし、人が一対一で話してる時にはそんなに「笑い声」を出して笑ったりしないし、取ってつけたようなCGが本当に取ってつけたようになってる部分があるし。ついでに言うと後半も、死んだように眠るというキャラクター付けについては2回目は、特にクライマックスの中でやるんならもう少し小さくていいと思うわけです。

しかしながら。

それでもなお、観終わった後には、というか、何度観ても、「大傑作だったなぁ」と思ってしまうわけです。とにかく、中盤以降の没入が凄いんですね。この作品は世間的にも概ね好評だったようなので私だけのことではないと思うんですが、個人的にはやはり、「競技かるた」の肉体感覚をドライブする「映像力」と後半のプロットの構造自体、三段ロケットで巨大な推進力を生み出している「ストーリーの駆動力」に完全に持っていかれている、という感覚があります。

前者の「競技かるたの映像力」については、スーパースローも駆使したスポーツとしての映像化のレベルもさることながら、礼に始まり礼に終わる「所作の美しさ」も合わせてしっかりと捉えていて、「かるた」という題材に対する作り手の敬意というか真摯な向き合い方が、成果としての映像のレベルの高さにつながっているように思います。単に映像として美しいとか完成度が高いというだけではなくて、作品が目指す方向に完全に収斂して一つのゴールに向かってブレなく全体を推し進める力になっているというか。映像だけが浮いているようなひとりよがりの違和感がないんですね。生み出された映像が描写するものが、競技の緊張感とか、選手たちのひたむきさとか、作品の骨であり肉である「本質」そのものになっているところが素晴らしくて。これはもう素直に、監督の采配というか、力量なのかなぁという気がします。映像美に無駄がない、というのは実はけっこう難しいことですし。

引きの映像も隅々までちゃんとしていて、最終戦の決着時、俯瞰の映像の左側で肩を震わせる「敗者」の演技とかもう本当に「行き届いて」いる感じで、画面のどこを見ても、その場で発生している情動がブレるどころかむしろ的確に支えられる感があります。

一方、もう一つのストーリーの「構造の駆動力」というところなんですが、これはもうまず脚本が見事なんだと思います。上記の通り、丁寧に作り上げられた映像による「情感の高め方」がすでに見事なわけですが、そこに決定的な加速力を与える機械的な構造というか、テコを使えば大きなエネルギーが生み出せるとか、ギアボックスを噛ませれば速度を増大できるとか、そういうレベルで、「メカニズム」として大きな効果を生み出すプロット構成になっているわけです。中盤からの流れは本当に見事だと思うんですが、特に大会当日、最後のステージの中で「机くん」→「千早」→「太一」の順で畳み掛けるように展開する「三連カタルシス」はロケットがブースターをどんどん切り離しながら一気に大気圏外まで駆け上がっていくような素晴らしい解放感をもたらしていました。

特に机くんはとんだ伏兵というか、それこそストーリーの要素の「数合わせ」的に配置された類型的な優等生キャラクターかと思いきや、突然、文字通り爆発的な演技で場を持っていき、見事にこの一連のクライマックスの幕を切って落とします。ここで足をすくわれたらもう後はジェットコースターのようにどんどん加速しながら運ばれていくばかりで、最後の太一の運命戦まで終わったらもう完全に魂が宇宙に運ばれてしまっているので、その後はもうどんな技が来てもまともに決まるという状態になるんですが、そこにまたあの一連のエピローグと『下の句』への引きが見事なわけです。

なんというか改めて考えると中盤以降が本当に巧みすぎて、何かこう、「何がそこにあるのか」ということを考えてしまいます。単純に人知を超えた確率変動的な何かが起きていたのか、制作側が狙って起こした活性状態の産物なのか、それともこういうものが必然的に作られていく何らかの初期条件があるのか、それともあるいは、単純にこの全てが主観的な揺らぎであって、この作品によって受けた衝撃はむしろ、自分が元々持っていたものが元素転換的に爆誕したものなのか。

感覚的には、考えてみるべきポイントも、そこから得られる結論も何か一つの単純なものということはない気がしますが、とにかく、こういうあれやこれやを一気に突き抜けて一気にランキング枠外、みたいなことになる作品との出会いはありがたいものです。特に今作は前半で足踏みしたがゆえに相対的に「突破感」がさらに強く、当面、頭のてっぺんに貼り付いたままの作品になりそうです。

とりあえず原作は『下の句』まで観てから読もう、と思っていたんですが、『下の句』を観て、さぁ結局どうなるんだよ、と思っていそいそと読み始めたら実は原作もまだ完結していなかったということで吐血している昨今です。

[movie] ズートピア

Zootopia

製作総指揮ジョン・ラセター、監督にバイロン・ハワードとリッチ・ムーア、声優にはイドリス・エルバやJ.K.シモンズを配し、まさに隙のない布陣で、満を持してディズニーがぶち込んできた、ある意味で宣戦布告のような作品です。

映画としては当然のごとく非常に高い完成度で作り込まれていて、逆に面白みがないくらいなんですが、随所に利かされたフィルムノワールっぽいテイスト、いろんなジャンルの過去の名作への目くばせ、アメリカ近現代史のエッセンス、ジェンダー問題、人種問題、職業問題といったあれこれを完全武装のパッケージに詰め込んで送り込まれていて、何というか、ディズニーという巨大生物がこれまでのホームグラウンドからのそりと這い出て、本格的に他ジャンルの捕食を始めたような印象を受けるわけです。何というか、おいおいその線超えてくるのかよ、どこまで侵攻する気だよ、というか。

まぁしかしその辺はある意味余計な心配というか、それによって映画界全体が一層の激しい競合・切磋琢磨を通じてさらに進化していくこと、ディズニーというプレイヤーから、また別のジャンルで名作・傑作が生まれてくることを素直に期待していればいいわけですが、それにしても、こう来るか、という感懐はぬぐえません。そもそも『ズートピア』というタイトルからして何というか黒いですよね。今の世の中で「ユートピア」という言葉が内包する特有のえぐみというか、元々の意味からスタートして「嘘くささ」のような一段階目のねじれを経て最終的に至った、「現代社会でその語を放つときに空気中に漂い出す意味合い」を踏まえて、完全に狙って投げてる感というか。もちろん作品自体が肉食動物と草食動物との共存の裏に、という話をしているので、そこは腹黒なダブルミーニングとかではなく素直なタイトルでもあるわけですが、それでもディズニーがこういう言葉を元々の意味ではない形で持ってくるというのは、いよいよかぶりものを脱ぐぞ、というメタなクライマックスを感じます。

さて、実際の作品の方ですが、ディズニー伝統の、いわゆる無垢な物語の世界の基調は残して、そこはそのレベルで「ハッピーエンド」として綺麗に閉じておきつつ、その上に重ねられた一つ上の次元では実はそんなにシンプルな答えは提示していないという形になっている気がします。これは最近の『シュガー・ラッシュ』『アナと雪の女王』『ベイマックス』というラインアップからの発展形ではないかと思うんですが、たとえば映画の中でジュディが担当している「誰でも何にでもなれる」というテーマは、ベースのレベルでは彼女とニックが警官として認められる形でゴールする一方、じゃあ駐車違反の切符切りとか、誰もなりたくないものには誰がなるのか、という「裏面」については、ジュディの父母のニンジンづくりの話が提示されるだけに留まっていて、重ねられたレイヤーの方では簡単な紋切り型の結論は出していません。この辺は意図的なデザインだと思うんですが、そういう外に向かってひらけた「余白」をさりげなく配置しながら、あくまで基盤のレベルであるシンプルなストーリーの次元には余計なノイズは入れずにおく、というこのバランス感は、スタジオシステムというか、ノウハウとメソドロジーとシステムによって脚本を完成させていく今のディズニー・アニメーション製作の真骨頂という気がします。

まぁ、こういった完成度の高さを追求する仕組みが、それ単体だけで映画の面白さを保証するかというとそれはまた別の議論なんですが、この隙の無さ、抜け目なさは作品全体のあらゆるところで発揮されていて、たとえば笑わせどころとかもいちいちレベルが高いんですよね。非常に隙がない。ただナマケモノのところはあれは完成度とかいうレベルを超えた、この映画の唯一の特異点かもしれないという気はしますが。ああいうのはさすがに規格外であってほしいというか、再現可能な方法論であそこに到達できるなら、それはどうやっているのかぜひ知りたいものです。

なお、ちょっと本作そのものを離れた話になりますが、「シンプルな物語」としての一階部分と、何やらいろいろ隠微な感じの屋根裏部分という二階建て構造で考えたときの二階部分にいろいろ盛り込まれている要素は、昨今のハリウッド映画の傾向というか風潮のようなものにもリンクしている気がしていて、少し改めて考えてみた方がいいテーマのような気もしています。最近、実話に基づく話がやけに多かったり、1950~70年代が舞台になった作品が増えていたり、という今の状況は、アメリカという国が自分のアイデンティティを確かめ直そうとしているかのように(もしくは馴染みのあるものに回帰して安心しようとしているように)見えるんですが、今作は、それ自体はもちろん実話でもなく1950代にも70年代でもないにせよ、二階部分に詰め込まれた「美徳」や「価値観」がまさに同じ根を持っているように思われます。そうしたアメリカンな部分というのは、それはそれでもちろんアメリカ国民でなくても堪能できる普遍的なものではあるんですが、受け手としては作品が根ざす地盤と自分自身が根ざす地盤の連続性と不連続性を踏まえ、つなぎ目や切れ目を込み込みで味わっていく方が楽しそうだなぁ、という辺りがこの映画に関する自分の着地点でしょうか。
字幕は石田泰子さんで、この辺もまた隙がなかったです。

[movie] レヴェナント: 蘇りし者

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アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督が前年の『バードマン あるいは (無知がもたらす予期せぬ奇跡)』に続いて二年連続のアカデミー監督賞を受賞し、かつ、レオナルド・ディカプリオに悲願の主演男優賞をもたらしたクマ映画です。クマ度について言えば、ハリウッド映画史上に新たな金字塔を打ち立てたと言っていいのではないかと思われるレベルで、クマの大きさやその膂力だけでなく、息遣いや重量感、体毛のゴワゴワ感までをしっかり描き切った手腕は見事という他ありません。

またこの作品を語る上では撮影監督のエマニュエル・ ルベツキ(彼も『バードマン〜』に続いて撮影賞を受賞しました。その前の『ゼロ・グラビティ』から数えて何と三年連続)の存在も欠かせないわけですが、この人もまた自分の立ち位置をフルに活かして好き放題やっていて、特に全編を通じてほぼ自然光のみで撮影、という現代の映画作りの中では狂気としか言いようのないこだわりで物凄い「絵」の奔流を生み出しています。

実際、本当に凄まじい作品なわけですが、このイニャリトゥ監督の作品というのは、私自身が無意識に映画というものに対して想定している「体裁」とか「フォーマット」的なものがすり抜けてしまうというか、投射しようとするこちらの期待とあまり互換性がなくて、その部分が期せずして独特の味わいを生んでいるような気もします。何というか、イニャリトゥ監督は「映画」というものを「制作」するというよりは、自分の「作品」という、映画云々以前のもっとプリミティブな輪郭を持つ何かをフリーハンドで「デザイン」しているような、と言ったらいいんでしょうか。

そういう意味では、この作品はもちろん素晴らしいわけですが、あくまで個人的な感覚としては、それは映画という定型の評価軸上の素晴らしさというよりは、イニャリトゥ監督が、ディカプリオの鬼気迫る演技だとか、ルベツキの研ぎ澄まされた「画」力を思いのままに組み上げて作った156分という「経験」の素晴らしさという気がするわけです。

この辺りは個人の好みもあると思うんですが、何よりもまず「ストーリー」という要素の位置付けが希薄というか、例えば『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が、ストーリーの純度を高めた結果、「神話」のように抽象化・普遍化された、という言い方をするなら、今作はさらに抽象化が進んだ結果、ストーリーという枠組みすらも脱却して「星座」になってしまったというか。プロットとして「紛糾」が提示されて「解消」に至るという当たり前の流れが、ほとんど透明と言っていいレベルになっているように感じられます。なので、今作が非常に高く評価され、監督賞、主演男優賞、撮影賞を獲得しつつも作品賞受賞には至らなかったという結果は割としっくりくるというか。

ただそれはもちろん、この作品が映画としてどうだこうだ、ということではなく、やはり極上の逸品であることは論を俟たない話であって、ため息どころか魂が漏れそうなほどに美しい映像の中、ディカプリオの全身全霊をかけたような演技を堪能するというのはちょっと他では得がたいような素晴らしい時間には違いありません。(というか、本当に今作でのディカプリオの演技とルベツキの映像はちょっと常軌を逸しています)

というようなことをつらつらと思うわけですが、とりあえず作品を堪能して、そしてしばらく時間をおいて消化吸収もひと段落終わった上での結論としては、ディカプリオおめでとう、という感じではあります。あとクマとかよかったなー、みたいな。

なお字幕は松浦美奈さんでした。本当に当たり年です。

[movie] ボーダーライン

エミリー・ブラント主演、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による、ベニチオ・デル・トロ映画です。もう果てしなくベニチオで、救いようもなくデル・トロ、ところにより一時ジョシュ・ブローリンという感じに突き抜けた作品です。

今作は「実話に基づく」ではないんですが、極度にエスカレートしたメキシコの麻薬とマフィアの問題を題材に、絵空事ではない背景をベースにしつつ、エミリー・ブラントをダシにして執拗にベニチオを描いています。邦題はわざわざ『ボーダーライン』として、ポスターでも「善悪のボーダーラインは云々」等と「親切設計」に改めているわけですが、そもそも原題「Sicario」は、メキシカン・ドラッグ・カルテル界隈では「Hitman」的な意味で使われる言葉だそうで、明確にベニチオ・デル・トロ演じるアレハンドロ自身を指しています。

たしかにCIA主導のいかがわしい超法規的捜査だったり、それに巻き込まれた女性捜査官ケイト(エミリー・ブラント)の、自分自身の正義との葛藤だったり、あるいは舞台であるアメリカとメキシコの国境そのものと、そのこちら側と向こう側での世界の対比だったり、「ボーダーライン」というものが非常に大きな、作品の主要モチーフであることは間違いないんですが、やはりこの映画はベニチオ・デル・トロが演じるアレハンドロの映画だと思うわけです。

キャラクターの造形としてはある意味でシンプルな「復讐者」ではあるんですが、これをベニチオ・デル・トロが演じていることで意味が生まれているというか。終盤、麻薬王と食事の席で対峙するシーンなどは、それ自体がこの映画の「コア」と言っても差し支えないレベルになっています。

また撮影監督のロジャー・ディーキンスがまたしても地位と名声をいいことに(しているかどうか知りませんが)「好き放題」やらかしていて、前半の高速道路のシーンもまたこの映画の「コア」と言っても(以下同文)

ということで、善悪の彼岸此岸といったいかにもそれっぽいテーマなどはさておいて、「映画」を作ろうとして「映画」を作った、というような動機の純粋さが心地よい作品です。あと個人的には、『ゼロ・ダーク・サーティー』が開いた新しい何かを、ハリウッドとしてフランチャイズ化していくような戦略的な思惑もあるのかなという気が。続編の話もすでにあるようで、こういうソリッドでドライな背景と舞台に、裏面に秘めたウェットさをほのかに滲ませるような感じでベニチオ・デル・トロのシリーズが続いていくならそれはそれで大歓迎ではあります。

字幕は松浦美奈さん。今年は当たり年ですね。

[movie] グランドフィナーレ

英国が誇るおじいちゃん俳優マイケル・ケインを引退した音楽家として主演に配し、「老い」ということ、そして「人生の幕引き、あるいは清算」ということを鮮烈に描いたパオロ・ソレンティーノ監督作品です。邦題は『グランドフィナーレ』ということでやや仰々しくなっていますが、原題はシンプルに『Youth』というちょっとピリっとしたタイトルになっていて、この舌に触る辛さというか風味のようなものが、この作品の肝のような気がします。苦いような辛いような、一粒で何百円もするようなチョコレートのような味わいというか。

自分自身が中年時代もそろそろ後半戦に入ろうかという歳になり、また自分の親の人生というものを、自分とは別の個人のものとして客観視できるようになって、この「老境」というものがまた違った見え方をしてきている昨今、この手の作品はこそばゆいほどに深く響いてくるわけですが、今作についてはマイケル・ケインだけでなくハーヴェイ・カイテルとジェーン・フォンダがまた非常にあざとい演技をしていて大変困ります。特にジェーン・フォンダはスクリーンに出ている時間はほんのわずかなんですが、その登場シーンも退場シーンも研ぎ澄まされまくっていて、様々な人生を歩んできた登場人物たちが、その人生の終幕に向き合う、というプロットに、単純な「ほろ苦さ」以上のものを添えています。この辺りはもうさすがという他ないんですが、それにしてもジェーン・フォンダのこの登場シーンよ。


主演のマイケル・ケインの方も、これはもう、そこにいるだけで「老い」というものが瑞々しく描かれてしまうレベルのおじいちゃん俳優なわけですが、その彼が演じる主人公の「人生」を織り上げている、彼自身と、娘と妻、そして彼の作品「シンプル・ソング #3」の「組み上がり方」は実に巧みで、ストーリーの構造自体にため息が出るというか、迂闊にシンプルな共感を抱くと壊してしまいそうで、取り扱いに躊躇いを覚えるほどです。

いつか自分の人生を手にとって眺めてみて、それ以上付け足すものも引くべきものもない、と思う時があったとして、それが満足なのか諦観なのかは分かりませんが、そういう思いを持って、それをたとえば日の差す部屋の窓辺に置いていくような、そういう幕引きができるとしたら、というようなことを思う映画でした。何が言いたいのかよくわからない感じですが、まぁそんな感じの。

なお、字幕は松岡葉子さんでした。

[movie] スポットライト 世紀のスクープ

spotlight

アカデミー賞ノミネートを前面に押し出しすぎの残念なポスターですが、実際に作品賞を獲得してなお、あまり話題にならなかった感があるので、ある意味、強調していくのは正しい戦略だったのかもしれませんが(もしくはそもそも見当はずれなのか)、とりあえず満を持して、という感のあるマーク・ラファロ主演、トム・マッカーシー監督による本年のド本命映画です。

が、ちょっとこのところ観たのに感想をちゃんと整理していない作品が積み上がりすぎているのでまずはショートバージョンでさらっと書き上げることにします。:-)

作中ではカトリックの神父たちによる「児童に対する性虐待」と、教会による「組織ぐるみの隠蔽」という途方もなく深く巨大な闇に挑んだボストングローブ紙の特集記事専任チーム、「スポットライト」のメンバーの戦いを描いているわけですが、この作品は、主演のマーク・ラファロにとどまらず、チームリーダーを演じるマイケル・キートン、編集局長を演じるリーヴ・シュライバーを始めとするボストングローブ側の助演陣や、被害にあった児童を支援し続ける弁護士として登場するスタンリー・トゥッチ、支援団体を運営する被害者の一人を演じるニール・ハフ等々、実在の人物たちを演じるキャスト陣の渾身の演技が本当に素晴らしいわけです。

「事件」そのものが持つ、肚の底が冷えるような、どうしようもない重たさに対して、それに挑んだ側もある意味で「重さが釣り合う」ように演じ切るというのは、物凄い離れ業だと思うんですが、本作でのその達成度というのは、マーク・ラファロに対する個人的な思い入れを抜きにしても特筆に値します。例えば予告編でも抜かれていた、マーク・ラファロ演じるマイク・レゼンデスが、彼らの調査に苦言を呈した判事に反駁するセリフ、

Where’s the editorial responsibility in NOT publishing them?

は、この映画が観る者に投げかけてくる大きな問いを端的に表しているわけですが、その説得力というか、「力」が凄まじいんですね。社会に対して、社会の中に厳然と存在するそれらの問題に対する、責任とは何なのか。我々が日々、社会の中で生きていく営みの中に、「責任」はちゃんと存在できているのか。それを映画から観る者に届けるパワー。

そして一方、映画の中でも、この問いに対する様々な答えや姿勢を、例えばリーヴ・シュライバーやスタンリー・トゥッチがそれぞれ見事に演じていて、脚本の力量ももちろんあるわけですが、その辺り、隅々まで行き届くように描き切られた魂の煌めきを成り立たせた俳優陣とそれを束ねた監督が、この映画全編を強烈に輝かせていると思います。

このリーヴ・シュライバーとスタンリー・トゥッチはそれぞれ個別に記事を立てるべきじゃないかと思うほど言いたいことが山ほどあるのですが、まずはショートバージョンで、という誓いに殉じて今回はここまでとします。

ちなみに字幕は齋藤敦子さん、さすがの安定感でした。あと撮影監督がMasanobu Takayanagi(高柳雅暢さん)で、東北大学で学ばれた後に渡米して撮影監督になられた方らしいんですが、この方、『ブラック・スキャンダル』でも素晴らしい画を撮られていて個人的に気になっています。今後要チェック。

[movie] コップ・カー

Cop Car

ジョン・ワッツ監督、ケビン・ベーコン主演の「悪ガキがパトカーを盗んだら持ち主のケビン・ベーコン(口ヒゲ付き)に追いかけられた」という、何というか、それ以上の何の説明もいらない素晴らしい1行プロット作品です。もうこの時点で傑作確定で、あとはもう、どのくらいのケビン・ベーコン・ムービーであるか、という一点に尽きるわけです。

そもそもケビン・ベーコンといえばケビン・ベーコン指数0を誇る、全宇宙にただ一人の存在であって、まさに唯一無二の俳優であるわけすが、本作は彼がエグゼクティブ・プロデューサー兼任の主演であって、要するに、ケビン・ベーコンの、ケビン・ベーコンによる、ケビン・ベーコンのための映画にほかなりません。当然ながら観る方にもそれをわきまえた謙虚な姿勢が求められます。ここから先はすべてその上で、の話です。

この作品、観る前は、必死に逃げ惑う悪ガキにケビン・ベーコンが迫る!危機に次ぐ危機!ついに追いつめられた絶体絶命の少年たちの逆転のチャンスは?みたいな話かと思ってたんですが、ぜんぜんそんなことない、というのがさすがケビン・ベーコンですね。そもそも、開幕初手から悪ガキに対する感情移入をきっぱりお断りする導入になっています。清々しいまでのクソガキっぷり。まぁそもそも愛すべき少年たちを主人公に据えた王道のサスペンスとか、何もケビン・ベーコンの手を煩わせる必要などないんでした。いやぁ、うっかりうっかり。

というか、むしろこの作品のサスペンスは子供たち本人そのものにあるんですね。悪徳警官であるケビン・ベーコンの車にはあれこれとやばいものが積んであるんですが、アサルトライフルを持ちだして銃筒を鷲掴みにして持ち歩くわ銃口を覗き込むわすぐ人に向けるわ、挙げ句の果てには相棒にケブラーベストを着せて試し撃ちしようとするわ、というありえない行動のオンパレード。ああ、悪人が!子供が危ない!逃げて!と子供に感情移入させて危機感を煽る、みたいな当たり前のことはしないケビン・ベーコン。アホかこの糞ガキ!危ねえからやめろ!つかもうお前死ね!という、子供に対する怒りさえも生じさせながら危機感を爆発させるケビン・ベーコン。ケビン・ベーコンがエグゼクティブ・プロデューサーということの意味を読み違えてました。いやぁ、うっかりうっかり。

さらにケビン・ベーコン自身も、まったく良心など微塵も感じさせない徹頭徹尾の悪党で、登場してからしばらくの間は、もう本当にピュアな悪人として存在感を主張しまくるんですが、彼の「コップ・カー」がガキどもに盗まれてからは、それはもう、もの凄い勢いで空転し始めます。ランニング姿で荒野を走る姿も、とりあえず人里にたどり着いてから車を盗むシーンも、そしていよいよ無線でガキどもに呼びかける、というシーンも、極悪人の真剣な殺気が篭っているんですが、まったく何とも噛み合わせてこないんですね。といって完全にコミカル狙いかというと必ずしもそういう演出方向でもなく、観る側を当惑させるレベルで、極上の一人芝居を意図的に上滑りさせていきます。この居心地の悪さ。さすがケビン・ベーコンです。スリラーでもなければコメディでもないんですね。たしかに、そんな紋切り型のものをケビン・ベーコンが作るわけないんでした。いやぁ、うっかりうっかり。

で、一通りうっかりしたあとで振り返ると、この映画の不思議な魅力は、あるいは、ケビン・ベーコン・ムービーであることを差し引いた後にこの映画に残る要素は、「機械的」というか何というか、情感であるとか、あるいは「物語性」といったものを介在させない、物理エンジンで遊ぶタイプのゲームのような、ソリッドな「無機物性」であるような気がします。シチュエーションを組み立てて、悪ガキとケビン・ベーコンと、おじさんとおばさんと金魚を組み合わせてスイッチを押して起動しました、というようなかっちりした作りの「装置」の動きを楽しむような味わいといったらいいんでしょうか。

もちろん、物語の結末に向けた流れというのはあって、悪ガキにも見せ場はあるわけですが、そもそも感情移入を最初からお断りしているような作りなので、あまりビルドゥングスロマンといった趣でもなく、そもそも改めて考えるとガキの方は、潔さすら感じるほどにすっぱりと、何の反省も成長もしていません。これはある意味、すごいことであると思います。映画全体が、何の情感にも人物の魅力にも依存せずに、純粋に絵とプロットの組み上げで構成されていて、それがちゃんと作品として成立しているわけです。この辺の技量が、監督を務めたジョン・ワッツがこの後いきなり『スパイダーマン:ホームカミング』に抜擢された理由なのかもしれません。

あ、あと、警察無線のオペレータで声だけの役で婦人警官が出てくるんですが、これをやってるのがケビン・ベーコンの奥さんのキーラ・セジウィックで、そんなところまで徹底しているケビン・ベーコンっぷりに痺れます。とりあえずケビン・ベーコンもこれでけっこう気が済んだと思うので、またいろんな映画に出張してきてほしいところです。『トレマーズ』リブートなんて話もありますしね。

 

ちなみに字幕は西村美須寿さんでした。

[movie] ルーム

Room

レニー・アブラハムソン監督、ブリー・ラーソンおよびジェイコブ・トレンブレイ主演による、エマ・ドナヒューの同名小説の映画化(ドナヒュー自身が脚本)です。小説版についてはいわゆる「フリッツル事件」に着想を得た、と言われているようなのですが、ドナヒュー本人はイギリスのガーディアン紙の取材に答えて「その事件をベースにした、と言われるほどのレベルだとは考えていない」と述べているので、ここ最近の「実話に基づく」シリーズからは外れる、純粋な「フィクション」、ということになります。

しかし「フィクション」とはいえ、描かれているのは未成年の拉致監禁に端を発する非常に痛ましい事件であって、正面から受け止めるとなかなか重たい話であることは間違いありません。例によって「覚悟」して臨んだのですが。

基本的には子供の側(ジェイコブ・トレンブレイ演じる5歳の男の子ジャック)の視点に立つ形になっているので、全体としては観る者の精神をごりごり削るような作劇ではありませんでした。ごりごり来るなら来るで、それはそれで受けて立つ所存ではあるのですが、原作・脚本のエマ・ドナヒューも監督のレニー・アブラハムソンも変に色気を出さず、描こうと思ったものにしっかりと集中した形になっていて、かつ、それを受けて、メイン・キャストの二人が非常に丁寧というか、その作り手の意図を忠実に汲み上げるような演技をしており、ドラマが非常にスムーズに染みこんできました。

とはいえもちろん、喉越しの軽い、当り障りのない作品ということではまったくなく、先日の『Mr.ホームズ』でも感じたところではあるのですが、とにかく「子どもの眼差し」とか「子どもの叫び」というのは本当に「刺さる」んですね。ジャック役のジェイコブ・トレンブレイ君の演技は本当に凄まじくて、『ザ・ウォーク』を観て以降、何かにつけ「NoooooO!!」と心のなかで叫んでいた自分が、今は事あるごとに「No way!!」とか「I hate you」とか心のなかで叫ぶようになっているので、ある意味、ジョゼフ・ゴードン・レヴィットにも勝っているといっても過言ではないでしょう。

そしてそのジェイコブ・トレンブレイと、母親ジョイを演じるブリー・ラーソンのこれまた卓越した演技(本作でアカデミー主演女優賞を受賞)を素材に、本作をさらに一層高い次元に押し上げているのが、撮影監督のダニー・コーエンであると思います。

親子が「Room」に監禁されている前半では狭い空間の閉塞感、そしてそこで生まれてそこを世界のすべてだと認識しているジャックの視点を、暗い寒色のトーン、低い位置からの狭めの画角、というベースで統一してきっちり描いているわけですが、さらに、被写界深度もかなり浅く設定されていて、たとえば近距離で写される母親ジョイの顔が、ささいな身じろぎによって微かに焦点から外れたり戻ったり、という見た目の不安定さにつながっています。彼女の生々しい慄きのようなものが「絵」だけで伝わるように撮影されているわけです。

そして一方、世界が解放された後、一夜明けてからの画面のトーンは一変し、時には明るい色調の画面でジャックが自由に動き出します。広い画角のショットや引きのショットが増えてきて、「ジャックとママの世界」だった主観の構図から一転、「世界の中にいるジャック」という客観の構図になります。これもまた非常に効果的で、たとえば廊下の向こうからジャックと祖母ナンシーを捉えた「I love you Grandma」のシーンは、遠間からの自然な視点で写すことで、ジャックが「観る者が属している側のこちらの世界」の中で改めて人とつながろうとする、というシーンになっていて、つまり「客観視」できるがゆえに逆に観るものの懐に飛び込んでくるように構成されているわけです。特殊な環境に置かれたジャックの主観的一人称によるジャックの話であった前半から、「彼はもう観ているあなたと同じ、この世界に帰ってきていて」、「これはあなたの世界の話になっている」んですよ、と。客観視点になることで、話が観客側に一歩迫るという構造なわけです。

ちなみにこのシーンについてはナンシー役ジョアン・アレンの演技も素晴らしくて、「I love you Grandma」と言われた瞬間、ふっと微かに硬直するんですよね。不意に心臓に何かを刺された人が咄嗟にたじろぎつつもそれを相手に悟らせないようにするような、「I love you too」までの間のほんのわずかな「間」が、その三人称の構図の中で、「二人」の間にさざ波のように立ち上がる「あや」として伝わってきます。

こういった、「まさにちょうどその場に居合わせて」「それでいて寄り添うというよりはやや離れたところで、脇から見ているような」視点は、ウィリアム・H・メイシー演じる実の祖父ロバートが絞り出す「I can’t, I can’t… I’m sorry」というセリフであったり、祖母ナンシーの現在のパートナーであるレオの、ジャックに対する関わり方であったり、あるいはジョイとナンシーという母子の激しいぶつかり合いのシーンといった様々な場面を捉えながら、彼らが「Room」を出て、特殊な体験をした個人の主観から解放され、世界の中にぽつんと取り出された「受動的に疎外される異物」という立場から改めてスタートした新しいフェイズの物語を、主張しすぎることなく、それでいて巧妙に、流れるように描いていきます。

そして最終的に、「この世界」の中に取り込まれたジャックをつかず離れずで追っていくこの視点による物語の流れは、最後のシーンの「Room」に戻ることで、ひとつの大きな環のように閉じられることになります。名残惜しむようなジャックの視点がもう一度、枯れてしまった植物、イス、テーブル、ワードローブ、シンク、そして天窓に向けられた後、実はあまりにも小さかった「Room」が、改めて現在のジャックが属している大きな世界の視点の中に収まり直すわけですが、ここでの物語全体の最後の決着はジャックが促す形になっていたりします。

個人的にはここも、この作品の非常に重要なポイントだと思っています。前半と後半では観る側の懐で何かをひっくり返すような主観と客観の転換が行われるわけですが、もうひとつ、同じように構造上の転換点がこの物語にはあって、最後のこのシーンの「結び」と、そこにつながっていく起点としての出てくる「ジャックの髪の毛」が、ふたつの支点として作品中の「力学的均衡」をぐるりと回転させているというか。

前半の監禁生活の中では、視点がジャックからの主観であることもあり、彼を守る母であるジョイの強さがいささかの危うさと脆さを予感させつつも世界を支えている構造になっています。ジャックを育て、守り抜き、そしてついに脱出に成功させるまでの世界は、ジャックのためにジョイが支え抜いた世界でもありました。しかし、脱出した後の大きな世界の枠の中ではジョイ自身も、崩れ落ちる寸前までにひび割れた小さなひとつの魂でしかなく、戻ることによってまざまざと思い知らされた自分が失ったものや、元々はそこにいたはずの本来の世界で手にできていたであろうものに打ちのめされ、そしてついに、監禁されていた「Room」の中で成立し、彼らを守り支えていたその「構造」自体に対する、侵害的とも言えるような客観的批判のために、彼女はついに「折れて」しまいます。

一方、監禁中にジョイがジャックに教え込んでいた「ジャックの髪には強さが宿っている」というプロットは、旧約聖書の中のサムソンという英雄がいて、この無敵の勇者の力の源が彼の髪の毛で、というエピソードが下敷きになっているわけですが、前半においてはジョイがジャックを育て、支えていく中で、彼が強くあれるようにという望みから生みだされた「仕掛け」として位置づけられています。しかし、解放後に彼女の心を折ってしまうこのインタビューのシーンによってジョイに対する断罪の視点が導入されることで、この仕掛けについても、その枠組みの中における逆転的な様相を露わに帯びてきます。強くあるように、というジャックに対するジョイの願いの裏には、むしろジャックの存在に依存する自分自身のためにこそその強さが必要だったという面があり、それは、依って立つための支えをジャックに仮託することでもあった、という転換によって、自己犠牲の聖性がさりげなく剥奪されているわけです。

ジョイがジャックの存在という一点に自分たちの世界すべてをゆだねる中、狭窄的に湾曲した小さな世界の中でジャックを支え、そしてそれによってジョイを支え、さらにそれによって「Room」全体を支えるための「呪具」として作られ、5年の歳月をかけて育ってきたその「長い髪」は、彼らの解放後、転換を迎えた世界において、ジャックの意志で、ジョイを支えるために手離されることになります。歪んだ世界の中で世界を支える中核であったそれは、囚われていた構造から解き放たれて「聖具」として昇華され、それを作ったジョイの手に還り、彼女と、彼女を取り巻く世界との和解を調停する役割を果たすのです。ある意味、主観だけの世界の中で必要に駆られて捏造された我執の象徴が、客観的な世界の中で転換され、そこで生きるひとりの個人から別の個人へと伝わっていくことのできる普遍的で自由な「想い」として、母と子と、それを取り巻く世界を改めて繋ぎ直していくわけです。それは物語において、作品の構造自体が閉じた主観の構図から開けた客観の構図に転換する中、歪みの中に囚われた個人の中に人工的に作られた特異点のような「強さ」が、個人同士がつながる家族や社会へと開いていくインターフェイスである「優しさ」に生まれ変わる瞬間のようにも思えます。

そしてこの展開がジャックの方からジョイに向けて行われることで、批判と反省に晒されたジョイに対する物語上の「赦免」が達成されているからこそ、最後のシーンでやはりジャックに促される形での「Room」との決別において、ジョイは再びジャックと同じ場所に立って、ジョイを受け入れたジャックと同じく、彼女自身も世界を再度受け入れて、ともに歩んでいけるようになるわけです。そして、「Room」の底から天窓を見つめる主観から始まったこの物語は、彼ら親子を脇から見守る客観の視点を経た上で、それらすべてを俯瞰する、浮上していく天からの視点に還っていって幕を閉じていくことになります。

書いているうちにかなり暴走してしまった感がありますが、それだけ語りたくなるような大きな何かを観るものの心に置いていく映画だったということでしょう。これだけ書いてもまだ、本作中最も熱い感動を呼び起こすシーンである「脱出」のシーンについてはまったく触れていないわけで、その中心人物であった女性警官を含む、彼ら親子の人生に登場した善なる人々のことも忘れてはいけない大きな要素なんですが、観た人にとっては言わずもがなでもあるような気がするのでそれはおくとして、ここらで締めておきたいと思います。実にいい作品でした。

なお、字幕は稲田嵯裕里さんでした。稲田さん、今年2本目なんですが、1本目は『エージェント・ウルトラ』なんですよね。懐が深いというか幅が広いというか。