[movie] バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生

BvS

ザック・スナイダー監督の下、ベン・アフレック演じるバットマンとヘンリー・カヴィル演じるスーパーマンを筆頭にDCコミックのスーパーヒーローたちがMCU(マーヴェル・シネマティック・ユニバース)に立ち向かっていくという一大叙事詩の序章です。(ちがいます)

ザック・スナイダーといえば、とかく「物議を醸す」タイプの監督で、代表作をひとつひとつ見ていっても、賛否両論がくっきりと、場合によっては激しく分かれるものが多いような気がします。個人的には今となってはこの「BvS」の前日譚的な位置づけとも言える前作の『マン・オブ・スティール』はけっこう楽しんだのですが、今作については先行している批評家の反応がけっこう辛辣だったりして、不穏な空気が漂っていました。これはやはり「長い」とか「暗い」とか「絵面だけにこだわって脈絡がない」「全体を通した構成力がない」といったザック・スナイダーの悪い癖が出たのかなぁ、と。

なので、期待とも不安とも何とも言えない妙な予感を抱いて劇場に足を運んだわけですが、実際に蓋を開けてみると、なんとも見事に「長い」「暗い」「絵面だけにこだわって脈絡がない」「全体を通した構成力がない」作品にそのまんま仕上がっていました。(ヒャッホー)

 

が。

 

「それでも一向に構わない」、という奇跡が起きています。(ブラボー)

 

実際のところ、ザックの良くないところは本当にそっくりそのまま丼からはみ出す勢いでてんこ盛りになっていて、これは嫌う人は嫌うだろうなぁと思うんですが、これはやっぱり、ザック本人は悪いことだと微塵も思っていないんですね。クリエイターとして描きたいものと、プロの映画監督としてやるべきでないことの狭間で葛藤する、とかいうそこらの小物のような屈託は彼にはなくて、「これがベストだ」と心から信じて作品を送り出しているのが伝わってきます。おそらく彼にとっては、思いついた「美しい絵」があればリアリティやストーリー全体とのつながりとかに拘泥するべきではなくて、何なら唐突な幻視でもいいからそれを出すべきなのでしょう。まぁバットマン・シリーズでは本人のトラウマということもあるのである程度のフラッシュバックはOKだと思うんですが、今作のフラッシュバックは「甘エビを食べていたと思ったら次の瞬間マグロだった」みたいな、目隠しで海鮮丼を食べさせられているかのように、受け手の戸惑いを気にせずどんどん口の中に突っ込まれてきます。時々ショウガとか投入される感じ。

まぁ、個人的に非常に気に入っていた予告編のシーンまでが幻視のひとつだったのは衝撃を受けたわけですが、そういう困惑をとりあえず飲みくだして、まとまりも一貫した筋もない「絵の積み重ね」を問題視せずに受け取ることに成功すると、すなわち、この作品を純粋に加点方式のみで評価できるようになると、監督が最初からそっちにポイントを全振りしているだけに、この映画は非常に強力に迫ってきます。

そしてそれが特に際立っているのが、ジェシー・アイゼンバーグ演じるレックス・ルーサーと、そして何よりガル・ガドットのワンダー・ウーマンだったわけです。

特にワンダー・ウーマンは何だかよくわからないままうろちょろとストーリーに出たり入ったりしていて、この女性は何なんだ、とぼんやりと思っていたら突然凄まじい燃え音楽とともに見せ場を完全にさらっていった上に、そこまでの尺の長さに停滞して沈み始めていた観客の精神をも見事に救い出すというあっぱれなスーパーヒロインぶりで、正直な話、この「ワンダー・ウーマンとしての登場シーン」とそこでかかる”Is she with you?”にこの映画の価値の120%くらいがある気がします。

一方のジェシー・アイゼンバーグも、これまた見事な「ジェシー・アイゼンバーグ」を演じきっていて、バットマン v.s. スーパーマンというよりはジェシー v.s. バットマン&スーパーマンという構図をがっちり成立させる素晴らしい悪役ぶりでした。今回は定番の高速セリフまわしを、才気と狂気によって激しく振動する、高速ナックルボールのようなアレンジにしていて、極めてマニアックでとびきり魅力的なレックス・ルーサーを完成させています。

もちろん主演のベン・アフレックもヘンリー・カヴィルも決して引けを取っているわけではなく、それぞれ、かつて人であり、今はタガが外れるように人から逸脱した感のあるバットマンと、最初から人ではなく、自然な構造として人の世界から上空に乖離してしまっているスーパーマンを、かっちりと演じきっています。特にヘンリー・カヴィルの「やっぱりこいつは結局、人間じゃないんだな」という瞳の光は、生半なことではたどり着けない境地である気がします。もうひとつついでに、ジェレミー・アイアンズのアルフレッドも、マイケル・ケインよりさらに一歩、ブルース・ウェインの背中の闇に踏み込んだ寄り添い方になっていて、非常にポイントの高い執事像でした。どちらかというと「主人を思う執事の鑑」というより、「完全に呼吸が合った長年の相棒」といった趣で。

こういう、期待されているものをきっちりと完璧にこなす俳優たちの演技は、この作品を崩壊の瀬戸際から救い上げているのかもしれません。実際、ザック・スナイダーが好きなように突っ走って、世界観とそれに応じたリアリティが度々、危ういバランスに傾きながらも最終的に破綻せずに済んでいるのはこうしたキャスト陣がしっかり脇を固めていればこそ、という気がします。

 

ただ唯一惜しむらくは、最終的な決戦の相手であるドゥームズデイで。『インクレディブル・ハルク』のアボミネーションを思わせる造形と知性のなさが、どうしても萎えてしまうんですよねぇ。個人的なトラウマなのかもしれませんが、工夫のない巨人形態というものに、どうも魅力を感じません。バトル自体は割と好ましかったんですが、もう少し何とかならないのかなぁ。あまり原作から離れるとまた色々言われるんでしょうけども。

 

というわけで、不安と期待の入り混じった複雑な心情で臨んだ一作でしたが、観終わったあとにはシンプル極まりない「小学五年生」の魂が残る、近年では稀に見るレベルの「小五」映画でした。ザック・スナイダーは「俺たちのは『神話』だから」などと嘯いてますが、ぜひこの調子で、小学五年生が方眼ノートにガシガシと書き連ねる神話のような作品を作り続けていってほしいと思います。

 

[movie] Mr.ホームズ 名探偵最後の事件

Mr. Holmesビル・コンドン監督、イアン・マッケラン主演による、すでに現役を退いた老境のシャーロック・ホームズが記憶の彼方に遠く霞んでしまった「最後の事件」にもう一度臨む、という作品です。字幕はアンゼたかしさん。

イアン・マッケランがシャーロック・ホームズを、というだけでこちらとしては「イアン・マッケランがシャーロック・ホームズを!!」か「シャーロック・ホームズがイアン・マッケラン!!!」と書くしかなくなってしまうわけですが、その上に今回サー・マッケランが演じるのは引退間際の60代のホームズと、自分の人生の終わりを間近に感じつつ、最後にひとつ残ったままの謎に懊悩する90代のホームズで、なんというか凄まじいことになっています。

とくに後者、90代のホームズの演技というのは、90代の老人の演技とシャーロック・ホームズの演技というふたつに分解できるわけですが、この「90代の老人」の方が迫真の演技とかいうレベルではなく、結果として90代の老人がホームズを演じているように見えるんですね。観ていて「ああこんな老人に映画撮影なんて過酷なことをさせるなんて」と胸が痛くなりますし、最後の方はもう「ああ、これイアン・マッケランの遺作だ、これのシーンの撮影が終わってクランクアップでみんなが歓声をあげてるかたわらで眠るように息を引き取ったんだ…」みたいな失礼極まりない記憶の捏造が発生するレベルです。エンディングロールの後ふと我に返って、いやいやそんなことはない、まだ生きてらっしゃる、と思い直しても、それでも何となく不安になってくるレベルです。(サー・マッケランは現在76歳)

一方、劇中の現在、1947年のホームズの身の回りの世話をしている家政婦マンロー夫人の息子で、サセックスの田舎に引きこもったホームズにとっての唯一の友人であるロジャー・マンローを演じているマイロ・パーカー君(現在13歳)も素晴らしい演技をしていて、なんというかこの「老人と子供」の組み合わせは凶悪極まりないです。個人的にはイギリス映画界には、定期的に現れる名子役の系譜みたいなものがあるような気がするんですが、そうしたイギリス子役伝統の秘奥義とも呼ぶべき、しっかりした演技力と、実際に本当の子供であることの組み合わせから繰り出される、致死性の瞳の輝きと声の響きは、サー・マッケランの死に瀕した最後のきらめきと合わさって今作を安直なオマージュものとは別の次元に持ち上げているように思います。

…とはいうものの、手放しで絶賛かというとそうでもなく。

ビル・コンドン監督は『ドリーム・ガールズ』と『トワイライト・サーガ』、という印象が強いんですが、その後者の方が何となく今作に近いのかな、という。今作には原作の小説があるようで、この辺はむしろそちらの責に帰すべきところなのかもしれませんが、何ともこう、薄くて浅いというか。もしこれがホームズ物でもなく、イアン・マッケランでもなかったとしたら、あまり評価できるポイントは無いような気がします。もちろんそのふたつがある時点で一定の価値は保証されていて、そこについてはこちらもそもそも承知の上で観に行っているのですが、もう一歩踏み込んでくれていたらなぁ、という感覚はあります。

あと、これは自分が日本人であることによる特有の感想だと思うので作品の価値を定める上ではやや取扱注意であろうとは思うのですが、こちらとしてはシャーロック・ホームズが出てくる作品に対しては「英国」成分とでも呼ぶべきものを期待するわけです。そこで「日本」が出てくると逆に、最高のダージリンにカツオ風味の本だしを入れやがった!みたいな。イギリスのシャーロキアンとかはバリツとか含めて時々無責任に出てくるオリエンタル風味も是として楽しむのかもしれませんが、この辺はなかなか難しいところです。

あと、ヒロユキ・サナダの「シャーロックサン!!」が耳に残って離れない感じの映画でした。

 

[movie] マジカル・ガール


ちらほらと聞くともなく耳にしていた限りでは、日本の漫画やアニメの大ファンであることを広く自認しているカルロス・ベルムト監督の作品で、『魔法少女まどか☆マギカ』とか『美少女戦士セーラームーン』とかに影響を受けて、みたいな話だったので、ほうほう、スペインの監督がまどマギにオマージュねぇ、ふむふむお手並み拝見、みたいな浮ついた姿勢で観に行ったわけですが、いやまぁ、何というか致命的な心得違いでした。今から観るという人は心して観に行ってください。この先は読まずに。

そもそも「魔法少女」が出てくる「ダークファンタジー」じゃなくて、どちらかというと「魔性の女」が出てくる「フィルム・ノワール」です。まぁフィルム・ノワールは言い過ぎかもしれませんが、明らかにジャンルはそっちで、のこのことステッキを振り回す少女を観に行ったら密売人から入手した拳銃で撃たれて死ぬ羽目になります。

せめて監督がインタビューに答えて

私はスペインの観客に『マジカル・ガール』というタイトルで、何かをわかってほしいとは思っていませんでした。でも日本でなら「魔法少女」という言葉だけで、みなさんの頭の中に具体的な存在がいっぱい浮かぶでしょう? そこにはすごく期待しています(笑)。

と言っていることを知っていれば! 特にこの最後の(笑)を知ってさえいれば!!

しかしこの予期せぬ不意打ちは(予期してない方が悪いわけですが)実にいい方向に転じていて、映画を観て死にかけるなどというのは人生の至福のうちのひとつに違いなく、その絶好のチャンスに際して正確かつ精密に弾丸を急所に撃ち込んできた監督の手腕は見事です。完全なるヘッドショットというか。

まぁある意味、日本側配給の広報にまんまとしてやられて足をすくわれた感はあるのですが、しかしながら監督が日本の文化を愛してやまないと言っているのはおそらく間違いないところで、作品のモチーフとしては魔法少女だけではなくてもうひとつ飛びっきり濃厚な日本独自の要素が取り込まれています。

実は作品中、「トカゲの部屋」なるものが出てきていて、頭の後ろの方で何かさわさわとくすぐられるのを感じていたんですが、エンディング・クレジットに出てきたひとつの名前ですべてが繋がりました。

Akihiro Miwa

美輪明宏―――黒蜥蜴です。(※出演されているわけではありません。念のため)

そして、そうなると当然ながらそれは、さらに暗い奥底の方で、江戸川乱歩という地下水脈に繋がっているわけです。謎めいたお屋敷の中、黒い蜥蜴の絵が飾られたドアの向こう。劇中、ドアが開いてもさらにカーテンがあって奥を垣間見ることすら観客には許されないその部屋の向こうは、「あちら」なわけです。

そういう豊かな暗闇に繋がったファム・ファタールが、かつては「魔法少女」であり、そして今はれっきとした魔女となって、自分自身の魂の願いを追い求めた結果、二人の男が破滅する、そしてその破滅した男の一方にはもうひとり、魂の願いを抱いた魔法少女がいた、という、もはや要素の組み合わせだけで致死レベルの非常に危険な作品でした。こんなもの、心構えもなしに観に行くなんて自殺行為以外の何物でもありません。

その上に、キャスト陣の演技は子役のルシア・ポランも含めて冴え渡っていて、それを撮影監督のサンチアゴ・ラカハが、シンプルに研ぎ澄まされた、非常に美しい映像で捉えています。監督本人もどうやらフィルム・ノワールという言葉を使っているようなので安心してそのジャンルで捉えることができるわけですが、それにしても、病のために13歳の誕生日を迎えられるかもわからない無垢な少女の、ほんとうに罪のない「願い」から始まっておいてたどり着くこの結末。

衝撃の度合いの絶対値としては「魔法少女だと思ったら美輪明宏だったーーーッ!」というくらいなんですが、まぁ美輪明宏が実際にある意味において魔法少女であることと同じくらいのレベルで、この作品も「まどマギ」にインスパイアされた、少女の魂の願いのお話である、といっても差し支えはないのでしょう。素晴らしかったです。

あと、主演男優のホセ・サクリスタンは、イアン・マッケランのように美しい鼻の持ち主なので、その点でも必見です。そういう老境の男性がスーツをかっちり着込むシーンはやはり貴いものですね。

[movie] マネー・ショート 華麗なる大逆転

The Big Short2007年代から2010年ごろにかけて、世界を大きく揺るがせたサブプライム・ローン破綻の裏で、その危機を予見し、「世界が崩壊する方に自分の人生を賭けた」勝負師たちの一世一代の「空売り(ショート)」を描くアダム・マッケイ監督作品です。で、この「勝負師たち」を演じているメンツがまた、クリスチャン・ベール、スティーブ・カレル、ライアン・ゴズリングなどなど非常に濃厚なメンツが集まっているわけですが。

高度に発達した為替取引は詐欺と区別がつかない、と誰かが言ったかどうかは知りませんが、今作はテーマが「デリバティブ」または「金融派生商品」なので、この「高度に発達した詐欺」(ちがう)についてある程度理解がないと何を言っているのか、という話になるわけですが、今作は「第四の壁」を超えて観客に「何が起きているのか」を説明するシーンを節目節目で挟んでくる親切設計になっています。この部分はある意味、作品の「クセ」の強さに繋がっているのですが、そういう意味ではそもそも出てくるのが強度の曲者ばかりなので、全体としての統一感は取れているということかもしれません。

特にアンガー・マネジメントのセッションに遅刻というか乱入してきて好きなだけ喚き散らした挙句、かかってきた電話に答えて退出していくスティーブ・カレル演じるマーク・バウム、医大出身という異色の経歴を持つクリスチャン・ベール演じるマイケル・バーリの二人はキャラクターの造形もそれをスクリーンに立ち上げる演技力も際立っています。(クリスチャン・ベールはこの演技でアカデミー助演男優賞にノミネート)

ちなみに、この映画にはサブプライム崩壊に対して「ショート」に賭けた、以下の3組の投資家が出てくるんですが、

  • マイケル・バーリ(クリスチャン・ベール)
  • マーク・バウム+ジャレッド・ベネット組(スティーブ・カレル+ライアン・ゴズリング)
  • チャーリー・ゲラー+ベン・リッカート組(ジョン・マガロ+ブラッド・ピット)

3組目のジョン・マガロも他のビッグネームに対して演技でもけっこう頑張っています。不幸なことに同じ組に出資者である伝説の相場師的な位置付けでブラッド・ピットが入っているために、ポスター含めプロモーション上は完全に透明になってしまっています。彼はこのところ『キャロル』や『ザ・ブリザード』でも頑張っていたので今後、ぐんぐん伸びてくるのかもしれません。なかなかいい感じのメガネくんなのでぜひこれから台頭してきて欲しいところです。

 

さて、この作品はクリスチャン・ベールの助演男優賞の他、今回のアカデミー賞では作品賞と脚色賞にノミネートされており、脚色賞では個人的には非常に素晴らしかったと思っている『キャロル』『オデッセイ』を押さえて見事に栄冠に輝いています。原作はMichael Lewisの『The Big Short: Inside the Doomsday Machine』で、日本では翻訳版『世紀の空売り―世界経済の破綻に賭けた男たち (文春文庫)』が売られているんですが、今回のこの映画の作られ方をみるに、やはり題材である「サブプライム・ローンの崩壊」という経済上の一大クライシスそのものに対する視点そのものの比重が大きいのではないかと想像しています。

劇中のクライマックス、いよいよサブプライム崩壊が始まり、のちにリーマン・ショックと呼ばれた大事件が発生するにいたって、自分の目論見が完全に当たり、あとはショート・ポジションを換金するばかり、となったスティーブ・カレル演じるマーク・バウムがビルの屋上で電話ごしの会話をするシーンは、『フォックスキャッチャー』での素晴らしい演技を思い起こさせる濃密な名演なのですが、映画全体としては、前述の第四の壁を軽く超えてくる作品のトーンも踏まえると、その重い人間性(とその演技)の方向に特化しているという感じはなくて、現代社会の大きな枠組みや流れと、その中で卓越した先見性を持った何人かの「個人」が、その優れた「眼力」ゆえに見えてしまう「現実」と、それに対して自分がどうするかという「判断」と、そしてまた一周戻ってそういう個別のあれこれを巻き込みつつもとどまることなく、やはり変わらず轟々と流れていく濁流のような現代社会と、といった感じで、映画の枠の中にいろんなものを対立的・対照的に並べてみせる捉え方、提示の仕方をしている感があります。

監督・脚本のアダム・マッケイ(※脚本はチャーリーズ・ランドルフと共同)は『アントマン』の脚本でもなかなか素晴らしいバランス感を発揮していたと思うんですが、監督としての作風もそういう「複数要素のバランス」というところにあるのかもしれません。何にせよ、どのあたりが『キャロル』や『オデッセイ』の脚色より優れているのか、というところを見極めるためには、原作を読んでみる必要があります。(もちろん「アカデミー賞」なので、読んでもわからないかもしれないわけですが)

 

原作については今後の課題として、とりあえず、ライアン・ゴズリングってこんな(いい意味で)軽薄な感じだっけ、という感じでした。とにかく『オンリー・ゴッド』の印象が強すぎる。

 

[movie] ザ・ブリザード


クレイグ・ギレスピー監督、クリス・パイン主演の、1950年代のアメリカを舞台とする(また!)、実話に基づく(また!!)、生きて帰る系(また!!!)の海難救助ムービーです。まぁ「生きて帰る系」とは言いつつ、実際の劇中では「必ず生きて帰る約束」をするシーンはなくて、そこは幾分、見直したのですが。(予告編にはあったと思うんですが、記憶の錯綜なのか、それとも最近時々見かける「予告編専用クリップ」なのか判然としなくなってますが)

さて、主演クリス・パインということなんですが、実際にはこの映画で一番輝いているのはケイシー・アフレックである気がします。ケイシーといえば、「自分で勝手につけたキャッチコピーTop10」に燦然と輝いている「安定の不安定感」で個人的にお馴染みなのですが、今作ではその不安定感がレベルアップによって「不穏感」にクラスチェンジしているような趣があります。予告編でも「断固として生き延びるために暴風雨吹き荒れる甲板の上でクルーに説教をする」というシーンで、手を腰に当てたその拳の位置の高さが際立っていた彼ですが(あと声の高さ)、本編ではそれを遥かに超える「ゆで卵を剥く」シーンが強烈な異彩を放っています。何でゆで卵を持っていて、何であんなに時間をかけて剥いていくのか。脚本なのか監督なのか彼のアドリブなのか分かりませんが、暴風雨や途方もない高さの大波よりも遥かに迫力があります。

しかし惜しむらくは、全編にわたって蔓延している「締まらなさ」というか。ディズニーがディザスター・ムービーを作ろうとするとどうしてもこうならざるを得ないのかもしれませんが、絵にも音にも演技にもセリフにも殺意が感じられないんですね。細かく上げるとキリがないんですが、予告編で散々「定員12名の小型救助船で、残された32人を救うべく〜」と煽っていたので、そこは結構期待していたのですが、解決策は何と「とりあえず無理やり全員載せる」という。まぁ実話に基づいている以上、事実に忠実に従っただけなのかもしれませんが、そこを事実から逸れずにやるなら別に予告編で煽る必要はないと思うんですね。劇中では定員12名に対してクリス・パイン演じるバーニーとその部下の間で「無理に載せるなら何人までだ!」「22名です!」みたいなやりとりまでやるんですが、22名に対して32名+隊員まで載せることのプロット上の取り扱いは一切ないという。葛藤も対立もないし、沈みそうになるわけでもなく、操船が困難になるわけでもなく。まぁゆで卵とかそういうところにパワーを割いた結果、プロットに手を入れる余力が残らなかったのかもしれません。事実からはみ出すと怒る人もいるのかもしれないし。

あと、わざわざエリック・バナまで擁して描いている沿岸警備隊の新任の隊長とか、風邪引いて同行できない同僚とか、かつて助けることのできなかった犠牲者の弟とか、ヒロインとの馴れ初めとか、何というかこうネジが緩んで、進みながらも軋んで揺れる感じが何とも歯がゆいというか。まぁ、ヒロインについてはエンド・クレジットでの「実際の本人たち」の画像で何となく納得したのでそれはまぁ数に入れなくてもいいんですが。

折れたタンカーとか「わざと座礁させる」とか舵を仕立て上げるとか、潮のうねりのために嵐の海面下で形を変え続ける砂洲とかコンパスなくなるとか車のライトとか、もう少し加点できるポイントがいくつか(いくつも)あるだけに、総じて「惜しい」という感想になってしまう映画はではあります。

ただ、冒頭に書いたように、ケイシー・アフレック演じる航海士シーバートは実にいい味が出ていました。『白鯨との戦い』もそうでしたが、こういう映画は、航海士がピシッとしているとそれだけで沈まずに済むような気がするわけですが、キリアン・マーフィーについてはもう何も心配ないので、ケイシー・アフレックの方はこれを踏み台にしてどんどんメジャー・タイトルに進出していってほしいと思います。

しかしまぁ、『ザ・ブリザード』というタイトルの割に、そのブリザードに存在感というか脅威が感じにくいのは本当にどうなのかなぁ。『白鯨〜』のみならず、今年は『X-ミッション』という「狂乱の大海原」映像をメガ盛りにした作品があるので、ちょっとそこで見劣りするのは辛い気がします。冬の海の雪嵐なのに、「体温」に響かないんですよねぇ。何というか、6月頃に中学生がみんなでずぶ濡れになってプール掃除をしているくらいの温度感なので初夏に公開していれば相対的に『ザ・ブリザード』という感もあったのかもしれませんが。とはいえ原題『The Finest Hours』でも、本編にあまりFinest感がないのでタイトルは悩ましいところです。『ケイシー・アンド・ボイルド・エッグ・オン・ザ・ウォーター』でどうだろうか。

[movie] ヘイトフル・エイト


クエンティン・タランティーノ監督の第8作目、南北戦争後ほどなくのワイオミング州で、猛吹雪のために図らずもひとつ屋根の下に閉じ込められた曲者たちが織り成す密室劇、ということなのですが、もちろんタランティーノなので、一筋縄では済ませられないわけで、あまり歯切れのよい、簡潔な説明は実はできなかったりします。以下はその「簡潔な説明」に辿り着くまでの私的な覚書です。

さて、最初に「密室劇」という言葉を出しましたが、単にひとつの閉鎖空間でストーリーが進行するという意味で「密室劇」という言葉を選んだというわけではなくて、今作には実に濃厚な「舞台劇」的テイストがあるんですね。役者の語り口、セリフの応酬、登場人物同士の衝突と対峙から生まれる濃密な空気感。今作は70mmフィルムでの撮影ということで話題になったんですが、ワイオミングの広大な雪原を描くためではなく、むしろ役者たちが発する「力場」のようなものを孕んだ「劇空間」を独特な広がりのあるフレームとして、また濃密な厚みを持つトーンで捉えるためのチョイスであったような気がします。

そしてこの「役者の演技」という観点では、カート・ラッセルやサミュエル・L・ジャクソンといった、主役的な立ち位置の俳優だけでなく、脇を固めているティム・ロスやマイケル・マドセンが完璧な当て書きっぷりで、タランティーノ作品の真骨頂という感があります。基本、ひとつの密室の中での一昼夜、という極めて狭いスコープの、実に舞台的なセッティングの中で「会話」と「プロット回し」だけが濃密に絡み合う今作は、同じく非常に「舞台劇」的な色合いを持った『スティーブ・ジョブズ』を思い出させるわけです。そっちもつい最近観たばかりですし。

しかしそうして並べて考えると、やはりタランティーノは「映画の人」なんですね。「舞台劇」的なフレーバーというものは漂わせつつも、あくまで「映画」の「骨」で立っているというか。つぶつぶ感たっぷりの血糊であったり、アカデミー賞に(やっと!)輝いたエンニオ・モリコーネの音楽であったり、タランティーノ風味のカッティングであったり、約3時間という長尺を飽きさせない「映画畑のとれとれ新鮮タランティーノ作品」としてのエンターテイメントに仕上げられています。(一方の『スティーブ・ジョブズ』も大傑作なんですが、方向性が根本的に違うというか)

で、その「映画」という観点で考え直してみると。

昔から「西部劇」というのは世界からも文明からも孤立した閉鎖系の中で立ち上がる、一時的かつ特殊な「空間」、荒野のどこかにあるかもしれないし、ないかもしれない、そもそもあってもなくてもどちらでも外の世界にも実在の現実にも関係がない「異空間」を作るための装置だと思っているんですが、今作の、吹雪に閉ざされた駅馬車の屯所(兼、洋品店)という舞台は二重の、一見、冗長な構造なんですね。しかし、それはある意味で本作にアプローチするための手がかりであるかもしれないという気がしています。何というか、こうした舞台立て自体に、「西部劇による」「西部劇に対する」オマージュという感があって、今作ではそういったメタな観点が重要なカギなのではないかと。西部劇という世界を描く西部劇と、西部劇の在り様について語る西部劇、西部劇を総括する西部劇というか。

同じ西部劇というくくりでいうと同監督の前作、『ジャンゴ』の印象が未だに鮮烈だったりしますが、『ジャンゴ』は主演のジェイミー・フォックスもさることながら助演のクリストフ・ヴァルツとレオナルド・ディカプリオが素晴らしすぎて、彼らによって演じられた「人間の魂」のドラマになっています。(少なくとも、私の中では。ちなみにサミュエル・Lについてはいつものことなのであえて言及するまでもありません)

それに対して今作は形の上ではサミュエル・Lの演じるマーキス・ウォーレン『少佐』が主人公的な位置付けではありますが、主人公があって周りの登場人物やストーリーの流れが決まるというよりは、西部劇という枠組みの中で必然的に埋めなければならないポジションに、西部劇というストーリーの必然に要請されてサミュエル・Lが配された、と言いたくなるような描かれ方をしています。これは別に、『少佐』が「主人公にあるまじきクズである」、ということではなくて、他の登場人物すべてがそういう形になっていることを背景とした感覚です。

今作の登場人物は「ヘイトフルな8人」からそれ以外までも数えると、

  • 黒人
  • 賞金稼ぎ
  • アバズレ/賞金首
  • 保安官
  • 老将軍
  • 外国人
  • カウボーイ
  • メキシカン
  • 御者
  • 酒場(屯所)の主人
  • 酒場(屯所)の女将
  • 黒人メイド
  • 陽気な女御者

といった並びで、何というか実にTypicalな西部劇のアーキタイプなんですね。個々の言葉だけでは表しきれないものの、それぞれに配分された「特徴付け」と「性格付け」を合わせると、ちゃんと確認したわけではありませんが、西部劇の主要な要素が概ねカバーされているような気がします。もう、各登場人物に個別の名前がなくてもいいレベル。

これをちゃんとストーリーとして整合する様に組み上げた上で、人種差別、南北戦争とその後に残った諸々の影響、「法の正義」と「西部の正義」と「Dead or Alive」と私闘における正当防衛、といったモチーフを盛り込んでるわけで、観る方としてはよほど西部劇と相性がいいか、西部劇に愛着のある人でないと受け止めきれずに飽和して疲弊してしまうのではないかという気がするわけです。(Twitterなどを見ていても、実際、タランティーノなのに眠くなった、みたいな話を散見します)

さらに、こうした登場人物やモチーフといったストーリー上の構成ブロックだけでなく、本稿冒頭で挙げた「舞台劇」的な仕立ても、あるいは人物のセリフの応酬で構成される部分の比率の高さも、強烈に力のある脚本も、70mmフィルムの採用もその撮影手法も、すべてこのメタな、抽象化されたレイヤーでのテーマの取り扱いのために周到に用意され、目的を達成するために非常に根本的なレベルで狡猾に統合された構成要素なのかもしれません。(単にタランティーノの趣味という可能性も少なからずありますが)

で、このように作劇上の構成要素とそれがどのように配置され「消費されたか」を考えると、どうしても、「『西部劇』をテーマに自由に作品を作りなさい。上映時間は何分かけてもよいものとする」というお題を自分で出して、嬉々として自分で取り組んだタランティーノの無邪気な熱中顔が頭に浮かんで仕方ないんですね。西部劇なんだからあれも入れなきゃ、そうだ、これもないとダメだろう、みたいな、フリースタイル時間無制限一本勝負、戦う前から勝者は自分一人、タランティーノ一人勝ち、みたいな。

そしてそういうことをやっている以上、そのメタな取り組みの中で、必然的に非常に重要になってくるのが、あるいは、最終的にこの作品が作品として提示しなければならなくなるものは、タランティーノが「西部劇」をどう定義しているか、ということではないかと思います。特に今回、「西部劇」そのものをモチーフに「西部劇」で語ることによって、「西部劇」を作る視点、すなわち「現実のアメリカ」の同時代から現代に至るまで、現実に対して「西部劇」がどういうものとして作られ、存在してきているのか、さらに言い換えると「物語と現実」の関わりに対する視点が自ずと浮き彫りになってくるような気がするわけです。

そして、その視点は、反省的な、というほどの「色」はついていないんですが、やはり俯瞰的、大局的なものであって、そうやって視点を構えたことに対するタランティーノの総括のリマークが、冒頭のシーンに映る、雪に埋もれて誰も祀るもののないキリスト磔刑像なのではないかと思うんですね。

この作品では8人がそれぞれ自分一人の魂に殉じ、「憎しみを全うする」だけで、そこには何の正義もなく、かつ、誰かが快哉を叫ぶようなハッピーエンドもなく、そして何より「西部劇」は現実に対して「何物でもない」わけです。西部劇の「憎しみ」は物語の中において解消されず、それはすなわち、物語が現実の「憎しみ」を解消しない、ということでもあって、世界においては、神ならぬ人の身のレイヤーではただただ不正義と憎悪が蔓延し、たどたどしいピアノと悪党の高笑いが響き、そしてつぶつぶ感いっぱいの血糊と、立ち上る様々な煙だけが宙を舞い続け、そして、「西部劇」として語られてきた「物語」は何の「解決」も見ない。

しかし、おそらくタランティーノの立ち位置は「それが『西部劇』である」というものであって、この作品そのもの全体が、彼がそのキリスト磔刑像によって力強くピリオドを打って締めくくった、ひとつの明確なステートメントなのではないかと思うわけです。「人の子よ、おお、Hatefulなる者たちよ、(以下略)」という、(以下略)の余韻も含めた世界観の言明というか。

西部劇というのは、上述した通り、荒野の中での「浮き島」のような構造を持っていて、ストーリーに干渉しない絶妙なレベルにある文明によって極めて強固に成立させられたその「隔離」の「浮き島」の中で、「その中だけで成立する真実や真理」を描くことのできる優れたフォーマットなのですが、その方式上、やはり作り手の「伝えたいもの」「見せたいもの」に対する強烈な収斂性が殺意を持って迫ってくる名作というのが多々あります。

それに対して、その「フォーマット」をフォーマット自体によって自己言及的に描いているこの作品では、その「焦点範囲」が全体の構成そのものに拡散する形で広がっているために、なかなかとっつきにくくなっている部分もあるのではないかと思うんですが、自身が熱烈かつおそらくはかなり偏りのある西部劇ファンであり、ジャンルの第一人者でもあるタランティーノによる、「『西部劇』というジャンルそのものに対する『総括』」として本作を観るのは、なかなか濃厚で、かつ非常に独特な映画体験と言って差し支えないと、個人的には思います。(で、そうして観ると、彼が「拾わなかったモチーフ」というのも見えてきて、それがまた非常に示唆に富んでいる気がするわけです)。

まぁ、そんな回りくどいことを言わずとも「ああ、あれは『タランティーノ』だよ」とひとこと言えば、それでこの作品を人に説明するのには足るのかもしれません。タランティーノ以外では絶対に作れない(作らない)作品でした。