[movie] ストレイト・アウタ・コンプトン


コリー・ホーキンス、オシェア・ジャクソン Jr.、ジェイソン・ミッチェルの3人が演じる、コンプトン出身のヒップホップ・グループN.W.A.の成立から崩壊を通じ、ギャングスタ・ラップというシーンの立ち上がりと当時(1980年代後半から90年代にかけて)のアメリカの世相の移り変わりを描く、一種の伝記的な映画です。監督はF・ゲイリー・グレイ。

…で、また「実話に基づく」です。ええ。

まったくの門外漢として特に予備知識もなく観に行ったのですが(書き出しの段落もwikipediaとかからの付け焼き刃)、先入観も偏見も持たなかった、というのがある意味、功を奏したのかもしれません。非常に快適な映画体験でした。

ある意味、よくあるタイプのアメリカン・サクセス・ストーリーから転じてやや「ほろ苦」風味の味わい深いエンディング、という筋立てなんですが、何というか主人公たちの、決して善良とは言えないまでも真っ直ぐな、芯の通った人間性みたいなものと、各キャストのびしっと決まった演技(とパフォーマンス)が効いていて、登場人物に対してかなりスムーズに感情移入できてしまうのが良くて。

そこに持ってきて、メインの主人公であるドレの家族に対する愛情であったり、アイス・キューブの音楽に対する姿勢であったり、あるいはイージー・Eの、最後の最後までマネージャー(ポール・ジアマッティがまた非常にいい演技をしています)を切れないところであったり、ギャングスタという言葉からはちょっと連想していなかった、なんともエモーショナルなエッセンスがあったりして、非常に意外な後味を残すわけです。

特に、ポスターでも真ん中に写っている、イージー・E。契約の不公平さに異を唱えて袂を分かつアイス・キューブや、割と一貫して真面目っぷりを貫いているドレに対して、元々は麻薬の売人からスタートして成り行きで始めた素人同然のラッパーだったのに、あれよあれよという間にスターダムに上り詰め、そこで何かを見失っていった、というこのイージー・Eのキャラクターが、実に絶妙な「憎めなさ」で仕上げられていて、その土台の上に最後のプロットが来るのが実にずるいという。

 

とはいえ、この幕切れは、やや唐突といえば唐突で、そこまでに尺が足りなくなってしまっていた感はあります。その辺に、私が常々もやもやしている「現実がそうだったから」みたいなところが見え隠れしている気がして、少し座り心地が悪くもあるのですが、まぁイージー・Eにすっかり感情移入した後の話なので、気にするほどの違和感ではありません。非常に満ち足りた気持ちでスタッフ・ロールを眺めていたんですが。

この映画、プロデューサーとしてDr.ドレとアイス・キューブ本人がクレジットされてるんですね。(そのくらい知っておいてもよかった)

そうなるとまたちょっと話が違ってくるというか。この映画は親友であり同志であった3人の「成り上がり」と「軋轢」「決裂」そして「和解」を描きながら、最後にその中心にいたイージー・Eにスポットを当てて、いい奴だったよな、みたいになってるわけですが、生きてる二人が作ってるとなると、当人たちの描かれ方も多少なりと美化されていないか、という気はしてきてしまいます。アイス・キューブにせよドレにせよ、そう思うとあまり「シミ」がないキャラクターとして描かれているんですよね。

ただまぁ、結果的に、そのせいでイージー・Eのキャラクターだけが厚みを増しているのはなんとなく皮肉な感じもしますが、そういう背景を知った上で改めて考えると、監督のF・ゲイリー・グレイは結構バランスのいい舵取りをしていることがわかります。完全に外野の勘繰りめいてしまいますが、恐らくは相当に我が強く、業界の立ち位置的にも経済的にも非常に「声が大きい」であろう当事者2人を迎え入れて、その2人の視点と意向を踏まえながらも、巧みに「イージー・Eに対する思い」を抽出して、映画として仕上げたのだろうなぁ、さぞかし胃が痛かっただろうなぁ、と同情と賞賛を禁じえません。

 

***

ちょっと作品の枠外の話に逸れてしまいましたが、そもそも個人的にはヒップホップ以前に音楽を聴くという習慣があまりなく、かつ、根本的なところで「『不良』的なるもの」に対して距離を置きたい方なので、本来であればホームグラウンドではない作品だと思うんですよね。ところが、やはり高純度で蒸留された価値観というものは、そういう敷居みたいなものは軽々と乗り越えてくれるようで、観てるうちに「ん? 音楽も割といいじゃない?」みたいにあっさり感化されてきたりするわけです。

しかし、その感覚もある意味、この作品の焦点が音楽そのものでも、ましてやギャング文化でもないからこそ生じているものであって、それを支えているのは上述のキャスト陣の好演であり、またプロデューサーである当事者2人の彼ら自身の人生の様々な欠片に対する思い入れを、F・ゲイリー・グレイ監督が整理し、純化して作品へと昇華させたことによって実現された「映画としての価値」がもたらしているものではないかという気はします。ギャングスタ・ラップが実は肌に合った、とかでは多分なくて。

また、先に書いたように、筋立てとしては別に特段にユニークな構造ではなく、コンプトンのストリートで故もなく警官に引き倒されて地面を舐めさせられるような生活をしていた3人が、アメリカの「社会」と対峙し、しっかりと渡り合うような大きな存在として立ち上がりながらも、その成功自身に振り回されて対立し、離散し、というある意味で「よくある話」ではあるんですが、その一つ一つのステップが説得力を持って丁寧に描かれているので、「こうきて、こうきて、こうだよね」という一つの「形」がしっかりこなされている、という快適さもあります。やはり、常に基本に立ち返る、という意味で、定期的にこういう映画を観るのが大事ですね。

 

しかし、アイス・キューブことオシェア・ジャクソン役を、実子であるオシェア・ジャクソン Jr.が演じている、というのは、何というかどう捉えたものか。ウィル・スミス役をジェイデン・スミスがやっている、と思えば、ああそれはいつかやりそうだ、ということで収まりはつく気がしますが。

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