[movie] X-ミッション

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何か日本語版のポスターが見つからない、とかそういう事実が何事かを雄弁に物語っている気がしますが、とりあえず、エリクソン・コア監督による『ハートブルー』(1991)のリメイク作品です。そのオリジナルの方を観ていないのですが、とりあえずリメイクと言いつつ結構大胆に変えてきているということらしいので気にしない方向で。

この映画は「No CG」を標榜し、エクストリーム・スポーツの超絶スキルを持った犯罪者集団に、同じくエクストリーム・スポーツ出身のFBIエージェント(候補生)が潜入捜査を仕掛けるというプロットをいいことに、実にエクストリームな映像を好き放題にぶち込んだ作品なのですが、何というかこう、実にそれ以外に形容のしようがない仕上がりになっています。色んな意味で。

実際、この映画は、冒頭のバイクで切り立った尾根を疾走するシーンから始まって「ビッグ・ウェーブ・サーフィング」にしても「ウィング・スーツ・フライング」にしても、あるいは山頂からのスノーボーディングや完全にオーバーハングな崖に挑むフリークライミングにしても、CGじゃない、ということを頭が拒絶する感じのエクストリームっぷりで、理解を超えた凄まじい映像が全編通しててんこもりになっています。正直、これだけを観るのに劇場に足を運んでもいいレベルで。

特に「ビッグ・ウェーブ・サーフィング」については「映像自体が現実であること」を超えて、「そういうスポーツが実際に存在すること」という現実に打ちのめされるレベルです。5〜6階建てのビルの高さで立ち上がってくるその巨大な塊を見て、「よし、おれはあの波に乗るぞ」というような発想がどこから出てくるのか、人間という生き物の謎の深さ、業の深さに目眩がします。

その一方で、その映像を繋いで作品を束ねる役割を負っているところのストーリーがどうかというと、ちょうど位置付け的にしっくり来るのが『47 Ronin』ですかね。オリジナルの『ハートブルー』の主演がキアヌなんで、きっとそういうオマージュです。スピリチュアルな感じで、「お、おお、そうか…おお…おおお…」みたいな感じで、「悟る」ということがいかに己から遠いものであるかを思い知らされます。EnlightenとかOrdealとか普通に生きてるとあまり使わない言葉が頻出するので勉強になるんですが、それもすべて「オザキ・エイト」のインパクトによって綺麗に消去されるのでやっぱり勉強にはならないかもしれません。やはり「アルティメット・トラスト」の心境で、無心で身を委ねるのがいいのでしょう。何かを得るのではなく何かを返すための試練。そんなことを考えているうちに、よく分からないまま本編は終わっていたのですが。

スタッフロールが無茶苦茶長いんですね、この映画。

これだけ長いのは自分の記憶している範囲では『ハリー・ポッター アズカバンの囚人』以来じゃないかと思いますが、それもまぁこれまでに生きていて自分が地球から奪ったものを考えれば甘んじて受け入れるべきかという気はします。

なんともよくわからない映画だったので(いや、まぁある意味スゲーよくわかるんですが)よくわからないことをつらつら書いてきましたが、自分的には「映像キレイなだけで許せる範囲ってけっこう広いんだな」ということが分かりました。手汗もしっかりかいたし、満足です。足汗まではいかなかったのでさすがに『ザ・ウォーク』には及びませんが(他にもいろいろ及んでない)。

 

 

[movie] ディーパンの闘い

Dheepan内戦の続く祖国スリランカからフランスに逃れてきた3人の「偽装家族」を描いたジャック・オディアール監督の作品で、2015年のカンヌでパルム・ドール受賞作です。

と書き始めては見たものの、ジャック・オディアール監督作品はこれが初めてで、かつリアルタイムでパルム・ドール受賞作を観るのもこれが初めてだったりするので、実際のところ完全に手探りだったわけですが。

何というか、不思議な感覚でした。

主演のアントニーターサン・ジェスターサンが演じるディーパンはけっこうな顔力を備えていて、「虎」の異名を持つ反政府勢力の闘士としての説得力は十分以上(というか、本人がタミル・イーラムの少年兵上がりという経歴なので説得というより「現物」なわけですが)、「妻」を演じるカレアスワリ・スリヴァサンも「移民」にとっての「現実離れした現実」を正面から受け止めるにはまだ若い「妻」を好演しているのですが、プロットの角が取れていないというか。

ある意味、ハリウッドに甘やかされている、と言うべきなのかもしれませんが、するすると飲み込める喉越しではないんですね。ゴツゴツしているというと言い過ぎですが。

解放戦線の戦士だったディーパンがフランスの「団地」の管理人になり、日々の雑用をこなす日常パートに、その団地を根城にするギャングとドラッグ・ディーラーたちの不穏な流れが絡んできて、つに「家族」に直接の危険が及ぶに至り、というと、「あ、『そっち』かな?」と当然思うわけです。

ところが「家族」の方もあれこれと生の人間同士がその関係を徐々に結んでいく中でどうしても「ズレてしまう」みたいな流れが描写されて、簡単に「絆」みたいなものが出てこないんですね。そこはある意味、リアルといえばリアルで、そういうテーマはもちろん選択肢としてはありなんでしょうが、じゃ、どっちなの、と。

ここで「どっちかにしないのかー」と思ってしまうのが、非常によろしくないんだと思うんですが、その映画の本筋とは関係ない反省を片付ける暇もなく、映画はクライマックスに突入して、ディーパンはナタとドライバーを手に、ギャングのアジトに乗り込んでいきます。即席の火炎瓶を作り、車で突入して、煙が視界を完全に遮る中、階段をゆっくりと上りながらひとりずつ確実に片付けていくディーパンの、その足元だけを映し続けるシーンは素晴らしいんですが、「あ、やっぱりそっちなの?」という軌道修正が頭の後ろで走っていて、しかもその突入事態にはアクションとしてのオチはなく。あれ、何しに突入したんだったっけ、みたいな。

意味ありげな「象」のカットとかも合わせると、いわゆる一般的な映画の「方法論」を意図的に外しているのかと思うんですが、そうした「文脈」の助けがないので、いろいろと散りばめられているものをありのままに受け取ることになるわけで、本当に最近甘やかされているこちらとしては、観ててちょっと不安になるんですよね。あれ、これ、何か「解釈」できなきゃいけないんじゃないのか、みたいな。

しかし、基本に立ち返ると、そういう考え方自体、楽しむということに対して不謹慎な話で、こういう作品に出会った時に、星座にこだわらずに星空を観るような姿勢をすっと取り戻せるか、というのは、非常に重要なことであるように思います。とりあえず、個人的には、現実世界の内戦であったり、移民問題であったり、都市部の荒廃やドラッグの問題であったり、個人と家族の問題であったり、いろんなものがある中でそれを「ディーパン」の世界として切り出してきた作品として受け止めました(原題”Dheepan”)。邦題のように「ディーパンの闘い」というとまた違う見え方になる気がしますが、それはそれでありかと思います。

ちなみに売人役でヴァンサン・ロティエという人が出ているんですが、この人、どこかエドワード・ノートンに似てますよね。(関係ない)

[movie] スティーブ・ジョブズ

Steve Jobs JP

主演マイケル・ファスベンダー、監督ダニー・ボイル、脚本アーロン・ソーキンで、コンピュータ業界が一番騒々しく輝いていた時代に、さらにひときわ騒々しく輝いていた男を描く作品なのですが、スティーブ・ジョブズという「あまりに有名すぎる」人物をいまさら題材に取って、いったい何を描こうというのかという疑問に、ものすごい答えを叩きつけてくる映画です。何というか、どんな球を投げてくるかとバッターボックスで構えていたら物凄いスピードで走ってきた右翼手が重たいボディフックを肝臓に叩き込んできたような。

もうかれこれ24年間、Macをメインに使っていて、iPod以降、アップル社の新製品で買わなかったのはApple Watchだけ(←)、というと、私自身の立ち位置はわりと過不足なく言い表せると思うのですが、要はMacであったりiPod/iPhone/iPadであったり、といったスティーブ・ジョブズが提示してきたビジョンを支持しつつも、彼本人に対して特に思い入れやこだわりはないんですね。そもそも、今回改めて確認するまで、スティーブ・ジョブ「ズ」なのかスティーブ・ジョブ「ス」なのか曖昧だったくらいで。

なので、数々の逸話や「神話」のようなものは、知識としては知っているものの、それもあまり特段興味はない、という感じだったんですが、今回改めて彼自身をテーマにした映画を観て、その立ち位置がちょうどよかったのを感じます。というのも、この映画は、スティーブ・ジョブズ礼賛ではもちろんないし、また、彼を「人間スティーブ・ジョブズ」として捉え直す、ということでもないような気がするからなんですが。

もちろん、彼がMacintoshの前に手がけたLISA(Locally Integrated System Architecture)と同じ名前を持つ「彼が認知を拒んだ娘」リサのプロットは「人間」側面を強く支持する主題であって、かつそれはまたアーロン・ソーキンの脚本もあって非常に強く胸を打つんですが、映画全体のバランスを見ると、やはりそれも、もっと大きな全体を支える柱のような位置づけだと感じます。

というか、もう単純に言ってしまうと、セス・ローゲンとジェフ・ダニエルズが凄まじいんですね。

Seth Rogen Steve Wozniak

スティーブ・ウォズニアク(セス・ローゲン)

Jeff Daniels John Sculley

ジョン・スカリー(ジェフ・ダニエルズ)

セス・ローゲンは「”もうひとり”のスティーブ」、スティーブ・ウォズニアクを、ジェフ・ダニエルズは「ジョブズを追い出した男」ジョン・スカリーを演じているんですが、この二人とファスベンダー演じるジョブズの対決シーンは、場所がだだっ広い空間であることもあって、大きめのIMAXとかTCXとか、あるいはATMOSなり極上爆音なり、そういう仕掛けで堪能したくなるレベルのスペクタクルです。特にウォズとのiMac発表会本番直前のホールでの激突は、広い劇場でまばらな観客で、まさに「その場にいる臨場感」で味わいたいくらいなんですが、まぁせっかくなので大ヒットして観客はいっぱい入っていたとしても我慢します。

劇中でも出てきますが、ジョブズといえば「現実歪曲空間: Reality Distortion Field」です。しかし、そのフィールドに負けないレベルの巨人が出てくると、もうまさに宇宙と宇宙のぶつかり合いのような凄まじいエネルギーが発散されるんですね。現実を改変していくようなビジョンであるとか、世界でも有数の巨大企業を経営するとか、ひとつの時代の基礎となるようなアーキテクチャを設計し、実装するとか、そういう途方もない質量を有する巨大な魂同士が、ある意味「ギャラクティック・ウォー」みたいなレイヤーで激しくぶつかり合いつつ、その下の方では人と人の個人としてのインターフェイスで接し合っている、繋がっているというのは、ある意味、人間の社会の本質なのかもしれませんが、この作品の凄みはまさにそれを上から下までひっくるめてすくい上げたところではないかと思います。

そういう複数の特異点を並べて、そこから眺めた時に、スティーブ・ジョブズが「歪曲」させた現実の空間というのは、実に素直に広がっていて、彼らの眼の前にはとても健やかで明るい宇宙が開けていたんだなぁ、と。なかなか爽快な作品でした。

あとあれです。ケイト・ウィンスレット。いい歳の取り方をしてきてます。本作でまたアカデミー賞にノミネートされていますが、彼女はもういいので、ある意味、同じ場所から飛び立っていったもう一人、レオナルド・ディカプリオに何とかそろそろ、などと思いました。(ジョブズ関係ない)

[movie] 写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと

Saul Leiter

トマス・リーチ監督による、写真家ソール・ライター本人に対する取材・インタビューで構成されたドキュメンタリーです。2011年から撮影されていたようですが、映画の公開後ほどなく、2013年、ソール・ライターは89歳で亡くなっています。期せずして、偉大な写真家の晩年の姿を捉えた作品になってしまったわけです。

タイトルに「13のこと」とあるように、全体を13幕に区切って、それぞれのトピック、テーマでソール・ライターとの対話や、彼と街を歩いたり、プリントを委託しているギャラリーを訪れたりするクリップをまとめているんですが、やはり何といってもところどころに挿入されるソール・ライターの作品が実に素晴らしくて、その時点でもう満たされてしまいます。黒いスクリーンに彼の作品の、ピンクの傘などの鮮やかな色彩が非常に印象的でした。ちょうど『キャロル』を観てきたところでもあり(同作の監督トッド・ヘインズ自身が、自作とソール・ライターとの関わりについて幾つかのインタビューで述べています)、予感のような期待を抱いていたわけですが、なんというか「『キャロル』の美しさの源流のひとつ」のような作品群について、ライター自身が語る言葉を聞いていると、「ガラスの向こう」の奥行きだけでなく、反射として写り込んでいる「こちら側の世界」であったり、その隔てられた視点であったりといったいろいろな要素について、理解の解像度が上がったり、感覚の抽象度が上がったりするような気がしてきます。

もうひとつ印象的なのが、ソール・ライターという人の「語り」そのものです。実に理知的に、破綻なく、滔々と、それでいて即興的に語り続けるんですね。広く深い語彙の中から言葉を「正しく」繋ぎながら、その場のひらめきの中でふわふわと空中に浮かんだ「何か」を捉えようとするという語り口というか。本当に思いつきで、何を言うつもりという事前の意図を固めずに話し始めているように見えるんですが、つらつらと語りながら、きっちり文章を文章として整合させつつ、何かを捕まえて着地する。ソール・ライターは皮肉なユーモアの持ち主でもあるんですが、その一方、確固とした姿勢を貫きながらファインダーを覗き続け、世界を見据え続けてきた人だけが辿り着く、ひとつの境地が滲んでいるような語りでした。たとえば彼がしゃべっているのを2時間聴く、というだけでも十分に作品として成立するんじゃないかというレベルです。

あと、彼を取り巻く「環境」もあれこれと取り上げられているんですが、アシスタントであるマルギットや飼い猫のレモンも、ある意味「散らかりまくったガラクタ積み上げ放題の部屋」すらも奇妙に美しく、やはりこういう人の周りには、やはり自然と絵になるものが集まるということなのか、実に魅力的で、ドキュメンタリーである本作に極めて映画的な魅力を添えています。

で、本作の「映画的」な魅力というところでいうと、もうひとつ。彼の人生上のパートナーであった「ソームズ・バントリー」の存在と、彼自身の家族や生い立ちの話があります。

自身が撮影者でありインタビュアーであるトマス・リーチはその2点について、ソールが自ら語る以上の言葉を引き出すことをしていません。ここではその内容については触れませんが、この2点があるがために、「皮肉っぽいけれどユーモアにあふれた、温和な老人の一人語り」の背後に、黒々とした大きな空洞がぽっかりと口をひらいていきます。写真家としてのキャリアを確立し、「過不足ない人生」を送り、そしてそれを静かに閉じようとしている老人が、自分の冗談で思わずくすくす笑うときのその笑顔が、具体的には描かれない「それ」を受け入れた上でのものである、ということだけが、事実として観客に提示されるわけです。最近改めて気づいたんですが、こういう「描かないことで描く」「欠落による暗示」というのは、けっこう個人的な好みにはまるんですね。

もちろん最初に挙げたソール・ライターの美しい写真と、彼本人の魅力的な語り口、というのがこの作品自体の魅力として際立っているのは間違いないんですが、監督であるトマス・リーチの存在が、この作品をそれだけ切り出して貼り付けたものでは終わらせずに、強い映画として観客に迫るものにしていると思います。

とまぁ、映画は実に素晴らしかったんですが、劇場になぜか猫のトイレの臭いが漂っていたのが唯一の難点で。とりあえずあれだけ散らかった中で猫を飼っているソールの部屋もこんな臭いだろうなぁと考えることで臨場感を増す方向でその場は解消したのですが、一体あれは何だったのか…

[movie][camera] 『キャロル』に出てきたカメラ

ちょっと脇に逸れますが。

『キャロル』でルーニー・マーラが演じているテレーズは、デパートに勤めつつも、密かに写真家に憧れている、という女性で、彼女が自分のカメラで撮影したキャロルの写真は作品全体の中でも重要なモチーフになっているわけですが、ちらっと映るそのカメラが、ルーニー・マーラの手に中にあるせいなのか、何とも魅力的です。

Therese with Argus

 

ということで、ちょっと調べてみました。

まず、最初からテレーズが使っているカメラ。

argus-c3

これは、1939年にArgus社から発売された同社Cシリーズの3モデル目で、比較的安価だったことと「レンガ(Brick)」の愛称の元となったそのデザインによって人気を博し、27年にわたるロングセラーとなったものです。映画の舞台が1950年代なので、当時はまだ現役のモデルです。当然ながら完全にマニュアルで、劇中でのテレーズの取り回しもなかなかぎこちない感じだったのが印象的ですが、実はこのカメラの後期のバージョン違いが、ハリー・ポッター・シリーズにも出ていたりします。

Argus C3 in Harry Potter

ちなみに今買おうとするとヤフオクとかでは3000円から5000円といった辺りで出品されているようです。(eBayも同じくらい)

安価モデルというだけあって扱いはややこしそうなのであまりお勧めはしませんが、個人的にはちょっと欲しい気もします。何の話だ。

で、さらに、キャロルからテレーズへのクリスマスプレゼントとして贈られるのが、キヤノンIIIaです。こちらは1951年の12月に発売されたモデルで、舞台となっている1952年時点ではキヤノンのフラッグシップ機でした。

canon_IIIA_1

こちらは今買おうとすると状態によってピンキリで1万円から7万円といったところでしょうか。ヤフオクではあまり出品がありません。

ちょうどこの頃、日本のカメラメーカーも徐々に足場が固まってきて、世界に打って出始めた時期なのですが、この後、ライカから当時としては決定的な競争力を持ったライカM3が登場し、本格的な開発競争が始まっていくことになります。

まぁ本当に、だからどうした、という感はあるわけですが、テレーズが永遠に残すことを願ったそのひとつひとつの瞬間を実際にフィルムに焼き付けた機械と同じものが今現在でも入手可能であり、当時と変わらぬ動作をする、ということには、実に魅力的な不思議さがあるような気がします。同じものを持って、同じような思いを胸に、同じように何かを願ってファインダーを覗いてみる、というのも、映画のひとつの楽しみ方なのではないか、と無理やりまとめつつ、eBayの出品をひとつひとつチェックしているところです。

[movie] キャロル

Carol

トッド・ヘインズ監督による、ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラが、ふたり揃ってアカデミー賞主演女優賞と助演女優賞に最有力候補としてノミネートされている、「うつくしい人」度が致死量レベルに達してしまった作品です。

何というか、あまりに「うつくしい」がゆえに、もう何というかあまり正面から語る気が起きないので本筋については置いておくとして。

この作品では「ガラス越し」のショットが多用されています。キャロルも、テレーズも、それぞれ自分だけで、自分ひとりでいるような場面では特に、車の窓ガラス越しであったり、ショーウィンドウ越しであったり、オフィスのパーティション越しであったり、何にせよいつも、冷たく透明な何かに遮られた向こう側にいて、その時々の様々な表情の上に、雨のしずくであったり光の反射であったり、いろんなものが重なって映っていきます。

Carol behind glass

Therese behind glass

そこで描かれているのは、現実の世界とは相容れることのない美しさであり、その「一枚向こう」にある彼女たちだけの真実に対して、移りゆく現実の光と影はあたかも接して共にあるようには見えても、その実、重なってはおらず、手を伸ばして無理に近づこうとすると何かが割れてしまう、そんな致命的な隔たりがそこにはあるわけです。

それは、何も彼女たちが自ら望んでそこに隠れたり逃げ込んだりしているということではなく、自然な自分自身の有り様で生きている、ただそれだけで、魂と身体、声と体温が、図らずも世界からガラス一枚分隔たってしまう。そんな撮影がされています。(どんな撮影だ)

ちなみに、撮影監督はエドワード(エド)・ラックマンですが、彼はフランス撮影監督協会(AFC)のインタビューで、撮影機材についてこう答えています。

EL : …The images quite simply needed to look like people could have been able to film them in the 1950s.

Which is why we shot in Super 16, so we could find the picture character that was appropriate to the era. Modern 35mm film was actually much to fine to end up with that on the screen.

16mm… in 2015 ? Did I hear that right ?

Can you give us some specs on the equipment ?

EL : We shot with an Arri 416, and for the most part I mounted it with an old Cooke 20-60mm zoom, which I love. We also had an Angenieux 25-250mm and an Arri Master Zoom 16.5-110mm. For the fixed lenses, I used a few Cooke Panchros that are 30 or 40 years old, and of course without any diffusion because in 16mm, we are after all trying to preserve all of the definition the film can capture !

1950年代という時代の空気を出すために、16mmフィルムによる撮影で、かつ、あえて古いレンズを使っているわけですが、その味わいはけっこう独特で、フィルム・グレインだけでなく、光源の輪郭の見え方(というか緩やかな綻び方)が非常に印象的です。まさにラックマン(そしてトッド・ヘインズ監督)の思惑どおり、こうして撮影された本作は、現代から遠く離れた時代の物語を、今とは別の土台の上に成り立った時代の話として、現代社会の文脈とは綺麗に切り離して成立させています。

本作『キャロル』は互いに惹かれ合う女性ふたりの物語ですが、セクシャル・マイノリティとかLGBTとかそういう現代の「社会問題」の話ではなく、あるいは「個人と社会の軋轢」の話ですらなく、その魂の求めるところが世界とはぐれてしまった、「ひとり」と「ひとり」の孤独な存在が、互いの中に「在るべき場所」を見出していく、という話でした。これをそのように全うして描きつつ、さりとて切り離しすぎたあまりに現実から遊離して「昔話」になってしまわないように、それこそガラス一枚の距離感に封じ込めること。これを見事に成し遂げたのが、監督、原作からの脚色、撮影、それに加えて極めて印象的な衣装と、映画が終わった後も心に残り続ける音楽、そして何よりふたりの女優の素晴らしい演技であって、アカデミー賞6部門ノミネートというのもまったくもって順当な、というか全部受賞しても何も驚くには当たらないような、本当に素晴らしい作品でした。

あまりに素晴らしかったので、観終わった後の帰り道、iTunes Storeでサントラをダウンロード購入してすかさず聴きながら、そうだ原作も読もうと思ってAmazon.comに行って検索したところ、「Genre: Lesbian Fictions」という間違ってはないけれどあまりといえばあまりにストレートな分類にやられて、少しばかり夢から覚めたような心持ちになりました。ということで原作はまだ読んでいません。

[movie] サウルの息子

Son of Saul

ポスターにもあるとおり、第68回カンヌ国際映画祭のグランプリ作品であり、かつ第88回アカデミー外国語長編映画賞にも有力候補としてノミネートされているハンガリーの映画です。ナチスのユダヤ人強制収容所を舞台に、捕らえられているユダヤ人たち自身の中から徴用され、捕虜の管理のために働かされる「ゾンダーコマンド」のひとり、サウルの物語を、監督ネメシュ・ラースロー監督、サウル役ルーリグ・ゲーザで描いた作品なんですが。

実は、まだ学生だった頃、ドイツのミュンヘン郊外にあるダッハウ強制収容所を訪れたことがあります。ダッハウは強制収容所としては最古のものの一つで、その後いくつか作られた収容所のモデル的な位置付けになっているそうなんですが、現在に至るまで「人類の負の遺産」のひとつとして保存されています。実際に訪れて目にしたものなどについてはここではあまり踏み込みませんが、それはもう相当な衝撃を受けたものです。

それを踏まえて、この映画については割と後ろ向きになっていたというか、少なくとも喜び勇んでいそいそと観に行こうというようなものではなくて、「観るべきなのか」とか、「そもそも観るべきとか観るべきじゃないとかって何なんだ」とか「観なかったらどうなんだ」とかあれこれうだうだ考えていたわけですが。

やっぱり観ておいてよかったです。想像していたのとは全然違った作りで、自分の記憶全体の中でもかなり奥まった陰鬱な辺りにある刺々しく食い込んでいるナチスによるユダヤ人虐殺というものが、何か別のものとつながって収まりを見つけたような感覚があります。軽くなったりゆるくなったり、ということではないんですが。

***

この映画は撮影が非常に特徴的で、35mmフィルムを用いて、全編を通じて40mmのレンズだけで撮影されています。で、たとえば試しにGoogleで”Son of Saul”でイメージ検索してみると非常によく分かるんですが、非常に視点が「近い」んですね。さらに、ほとんどのシーンが暗い中で開放気味の絞りで撮影されているので、被写界深度が非常に浅くなっています。

さらに、これはイメージ検索では分かりにくいんですが、この作品ではその「近い距離」でサウルを後ろから追っていくという撮り方をしているシーンが極めて頻繁に出てきます。画面の大部分をサウルの後ろ姿が占めていて、見えている向こう側はボケに沈んでいて「見えているもの」が極端に狭いわけです。接するほどに近いところから背中を見ているのに、そもそもサウルが「何を見ているか」も分からないような撮り方になっていて、時折、他の登場人物のアップとか、サウルの視点か、と思うようなカットがあるんですが、それすらも、カメラが戻るとサウルは俯いていたりよそを向いていたりするという徹底ぶり。

この意図的な「視野狭窄」状態をベースに、監督はさらに「思考の狭窄」を重ねてきます。ガス室に送られた人の群れの中に「息子」を見出したサウルは何とか「適切な葬儀」を行いたい、と願い、ただそのことだけを考えて奔走し続けます。しかしながら、ストーリー上、同時に進行していく捕虜たちの蜂起計画と、さらに追加で送り込まれる大量のユダヤ人たちの処置を急ごうとするナチスの動きが絡まって、ただひとつだけのシンプルな願いに衝き動かされているだけのサウルは、一向に思いを叶えられることなく、怒涛の奔流に巻かれる流木のように、右に左に翻弄され続けることになります。

一方、監督によって視野も思考も奪われる観客は、為すすべもなくサウルの背中に乗って、何の見通しもないまま、彼と共に流されていくことになります。観る側としても、もはや「息子の葬儀」を目指す以外にストーリーにしがみつく術がないんですね。その脇を、画面の端を、いろいろなものがぼんやりと、それでいて急速に流れていくので、端々に写る、もはや熱意を感じさせるほどに黙々と行われている「ゾンダーコマンド」たちの所為は、その意味を把握する間も、ましてや噛み締める間もなく消えていきます。勢いよく次々と投じられて赤く燃え上がる石炭が「焼いているものは何なのか」、一心不乱に働く彼らが川に投げ込み続けているその灰の山は「そもそも何だったのか」。

それらのすべての意味を置き去りにして、何ひとつ思うままにすることもできないまま、それでいてただひとつの願いだけは手放さないまま、彼以外の誰にも見えない何かを見つめ続けて流されていったサウルが、最後にたどり着いた場所で、初めて、彼のその視線の先がスクリーンを通じて観客につながります。視線を投げられることすらないままに過去へ流れていったすべてのものを背にして観客が最後に目にするもの。そしてそれが森の中へ消えていった時、観客はサウルに代わって「それを目にしたもの」になり、そして作品から解放されることになります。

 

正直、観る前は、どんな思いで劇場を去ることになるのか随分と不安に感じていたのですが、これは、ひとりの人間としては受け止めることも難しい巨大な罪の塊を見るものに投げ出すのではなく、それを「通過」していく作品でした。そして、それはこういったテーマに対して、映画というフォーマットが実現しうる、新しい視点なのではないかという気がします。テーマ上、こういう言い方も憚られる感はあるんですがあえて書くと「面白かったです」という感じです。

 

[movie] 『オデッセイ』の「人間性」について

先週(2016/2/5)公開の『オデッセイ』、なかなか好調なようで、興収についてはちゃんと調べていないんですが、Twitter上でもかなり話題になっているようです。公式の広報があまりパッとしないので、こういう口コミでどんどん広がっていって、一人でも多くの人が劇場に足を運んでくれればいいなぁと思うんですが、そのネット上での取り上げられ方を見てちょっと思うところが出てきたので、初見時の感想とは別に、ひとつエントリを起こすことにしました。

『オデッセイ』の素晴らしさとしてよく語られているのが「困難に巻き込まれたプロが、決してあきらめず、知恵を尽くして問題を解決していく」という、この作品のまさに本質とも言えるところです。その点については私も2億2530万回くらい頷くところではあるのですが、それと合わせてちゃんと語られてほしいなぁ、と思うのが、作中で描かれている「人間性」の部分だと思うんですね。

この作品については「地球に残してきた家族がうんちゃらかんちゃら」とか、「主人公とヒロインの、宇宙飛行士の間の恋愛」とか、女性が涙目で「Promise me to come back」とか、髭面の男がダミ声で「絶対に生きて帰るぞおおおお!」とか、そういう「余計で安易なエモ」がない、というポイントがあって、それはそれで実に素晴らしく、かつ、それによって「主人公マーク・ワトニー」のポジティブさだったり人間性だったりという話が際立つという構造があるんですが、その一方でやはり、原作では特に色濃く表れているテーマである「人間というもの」全体の「善なるもの」としての「人間性」というところは、ちゃんと拾われていって欲しいと思います。

たとえば、中国の国家航天局のグオ・ミンとチュー・タオが「太陽神」ブースターの提供を決断するシーン。

 中国国家航天局局長 グオ・ミン(エディー・コー/左)と
副局長 チュー・タオ(シュー・チェン/右)

映画でも「科学者同士で話をしなければ」というセリフがありますが、ここは原作ではもう少し濃くなっていて、正規のルートを通すと政治と官僚主義といろんな思惑が絡んで間に合う可能性がない、「科学者」が直接話をして「越権的に」動かなければこの局面は突破できない、というシーンなんですね。しかも、実はその政治的な話を後から解きほぐす「打算」もしっかり見極めている、非常にしたたかな「科学者」が描かれているわけです。

映画ではそこには踏み込んでいないんですが、それでも、そもそもアメリカの宇宙飛行士一人を救うのに中国の国家規模のプロジェクトを丸々ひとつ犠牲にするという極めて大きな「決断」が「科学者であること」の下に行われているというこのシーンを、人間ドラマと言わずに何と言おうか、という話なわけです。

また、劇中最大の山である、ヘルメス・チームが直接「火星に戻って」ワトニーを救うことを可能にする「リッチ・パーネル・マニューバ」についても、NASA長官テディ・サンダース、ミッションの責任者であるミッチ・ヘンダースン、そして当事者であるヘルメス・チームの5人も、まさに同質の「大きな決断」に対峙することになります。

Teddy-and-Mitch NASA長官 テディ・サンダース(ジェフ・ダニエルズ/上)
アレス3 フライト・ディレクター ミッチ・ヘンダースン(ショーン・ビーン/下)

Hermes Vote左からマルティネス(マイケル・ペーニャ)、ベック(セバスチャン・スタン)、ヴォーゲル(アクセル・へニー)、ヨハンセン(ケイト・マーラ)、ルイス(ジェシカ・チャスティン)

5人の宇宙飛行士の命をリスクに晒すことはできないと判断するテディに対して、これまた「越権的」にこの情報をクルーに渡すミッチ・ヘンダーソンにしても、それを受けて全員一致でワトニーのために火星に戻ることを即断するヘルメス・チームの方も、「宇宙飛行士の魂」の下に、自らの身を顧みない、大きな「決断」をいともやすやすと乗り越えていきます。

もっといえば、この辺りの判断については、否定的立場であった長官のテディにしても、ルイス船長以下、さらに追加で5名の命を危険にさらすことを拒絶しているだけで、彼自身、その他のシーンでは補給物資積載の点検についてなど、ワトニーの命を救うための、他のあらゆるリスクは躊躇せずに取っていく強いリーダーシップを発揮していて、これもまた実に尊い。この人はこの人で実に明快な判断基準を持っていて、そこで躊躇うことをしていないわけです。

 

劇中のミッチの台詞として「彼らは一瞬たりとも躊躇わない」という言葉があります。この言葉はまさに全作品を貫通する大きなキーフレーズで、この言葉が向けられているヘルメス・クルーだけではなく、登場するすべての人物について、自分が信じる価値観に対して、まさに「一瞬たりとも躊躇わない」という姿勢が一貫しています。なので、映画は葛藤とか軋轢とかに拘泥せず、実にさくさくと進んでいき、こうしたひとつひとつの「問題」に対する「解決の行動」が実に爽快に連なって、清々しい感動につながっていくんですが、そうした側面の裏にそれぞれひとつずつ「精神性に基づく決断」があることを振り返っていくとまた一段と強く、深いレベルでの感動が湧いてくるわけです。

個人的にはこの「行動の裏の決断」をぐだぐだと描写しなかったリドリー・スコットとドリュー・ゴダードは実に正しいと思うんですが、その一方で、まさにこのポイントは「描かれていない」ものをどう捉えるか、という姿勢の話にも繋がってくるので、場合によってはこの作品の評価が分かれるポイントなのかもしれません。

実はネット上で「オデッセイは人間の内面が描かれていない、浅い」みたいな感想を見かけて心の底から驚いたんですが、確かに、「劇中で描かれていないもの」を拾ってやる義理は観客側にはないのかもしれません。人の迷いであったり逡巡であったり懊悩であったり、そういうものを乗り越えることの中にももちろん美しいものはあって、それを描く方向性というのもあると思うのですが、ただまぁこの作品について言えば、そういう懊悩を描いていない浅い作品ということではなく、そういう躊躇をすっ飛ばす即断の方をテーマにしたものだ、と個人的には思います。

で、それはやはり原作『火星の人』を読むと改めて深く感じられる部分だと思うんですね。「宇宙飛行士魂って奴ぁ…」とか「科学者っていいよなぁ…」とか「人類やっぱり最高だな」とか、映画版とはまた別観点での、非常に大きな満足感が得られるのは間違いありません。オススメです。

 

[movie] ストレイト・アウタ・コンプトン


コリー・ホーキンス、オシェア・ジャクソン Jr.、ジェイソン・ミッチェルの3人が演じる、コンプトン出身のヒップホップ・グループN.W.A.の成立から崩壊を通じ、ギャングスタ・ラップというシーンの立ち上がりと当時(1980年代後半から90年代にかけて)のアメリカの世相の移り変わりを描く、一種の伝記的な映画です。監督はF・ゲイリー・グレイ。

…で、また「実話に基づく」です。ええ。

まったくの門外漢として特に予備知識もなく観に行ったのですが(書き出しの段落もwikipediaとかからの付け焼き刃)、先入観も偏見も持たなかった、というのがある意味、功を奏したのかもしれません。非常に快適な映画体験でした。

ある意味、よくあるタイプのアメリカン・サクセス・ストーリーから転じてやや「ほろ苦」風味の味わい深いエンディング、という筋立てなんですが、何というか主人公たちの、決して善良とは言えないまでも真っ直ぐな、芯の通った人間性みたいなものと、各キャストのびしっと決まった演技(とパフォーマンス)が効いていて、登場人物に対してかなりスムーズに感情移入できてしまうのが良くて。

そこに持ってきて、メインの主人公であるドレの家族に対する愛情であったり、アイス・キューブの音楽に対する姿勢であったり、あるいはイージー・Eの、最後の最後までマネージャー(ポール・ジアマッティがまた非常にいい演技をしています)を切れないところであったり、ギャングスタという言葉からはちょっと連想していなかった、なんともエモーショナルなエッセンスがあったりして、非常に意外な後味を残すわけです。

特に、ポスターでも真ん中に写っている、イージー・E。契約の不公平さに異を唱えて袂を分かつアイス・キューブや、割と一貫して真面目っぷりを貫いているドレに対して、元々は麻薬の売人からスタートして成り行きで始めた素人同然のラッパーだったのに、あれよあれよという間にスターダムに上り詰め、そこで何かを見失っていった、というこのイージー・Eのキャラクターが、実に絶妙な「憎めなさ」で仕上げられていて、その土台の上に最後のプロットが来るのが実にずるいという。

 

とはいえ、この幕切れは、やや唐突といえば唐突で、そこまでに尺が足りなくなってしまっていた感はあります。その辺に、私が常々もやもやしている「現実がそうだったから」みたいなところが見え隠れしている気がして、少し座り心地が悪くもあるのですが、まぁイージー・Eにすっかり感情移入した後の話なので、気にするほどの違和感ではありません。非常に満ち足りた気持ちでスタッフ・ロールを眺めていたんですが。

この映画、プロデューサーとしてDr.ドレとアイス・キューブ本人がクレジットされてるんですね。(そのくらい知っておいてもよかった)

そうなるとまたちょっと話が違ってくるというか。この映画は親友であり同志であった3人の「成り上がり」と「軋轢」「決裂」そして「和解」を描きながら、最後にその中心にいたイージー・Eにスポットを当てて、いい奴だったよな、みたいになってるわけですが、生きてる二人が作ってるとなると、当人たちの描かれ方も多少なりと美化されていないか、という気はしてきてしまいます。アイス・キューブにせよドレにせよ、そう思うとあまり「シミ」がないキャラクターとして描かれているんですよね。

ただまぁ、結果的に、そのせいでイージー・Eのキャラクターだけが厚みを増しているのはなんとなく皮肉な感じもしますが、そういう背景を知った上で改めて考えると、監督のF・ゲイリー・グレイは結構バランスのいい舵取りをしていることがわかります。完全に外野の勘繰りめいてしまいますが、恐らくは相当に我が強く、業界の立ち位置的にも経済的にも非常に「声が大きい」であろう当事者2人を迎え入れて、その2人の視点と意向を踏まえながらも、巧みに「イージー・Eに対する思い」を抽出して、映画として仕上げたのだろうなぁ、さぞかし胃が痛かっただろうなぁ、と同情と賞賛を禁じえません。

 

***

ちょっと作品の枠外の話に逸れてしまいましたが、そもそも個人的にはヒップホップ以前に音楽を聴くという習慣があまりなく、かつ、根本的なところで「『不良』的なるもの」に対して距離を置きたい方なので、本来であればホームグラウンドではない作品だと思うんですよね。ところが、やはり高純度で蒸留された価値観というものは、そういう敷居みたいなものは軽々と乗り越えてくれるようで、観てるうちに「ん? 音楽も割といいじゃない?」みたいにあっさり感化されてきたりするわけです。

しかし、その感覚もある意味、この作品の焦点が音楽そのものでも、ましてやギャング文化でもないからこそ生じているものであって、それを支えているのは上述のキャスト陣の好演であり、またプロデューサーである当事者2人の彼ら自身の人生の様々な欠片に対する思い入れを、F・ゲイリー・グレイ監督が整理し、純化して作品へと昇華させたことによって実現された「映画としての価値」がもたらしているものではないかという気はします。ギャングスタ・ラップが実は肌に合った、とかでは多分なくて。

また、先に書いたように、筋立てとしては別に特段にユニークな構造ではなく、コンプトンのストリートで故もなく警官に引き倒されて地面を舐めさせられるような生活をしていた3人が、アメリカの「社会」と対峙し、しっかりと渡り合うような大きな存在として立ち上がりながらも、その成功自身に振り回されて対立し、離散し、というある意味で「よくある話」ではあるんですが、その一つ一つのステップが説得力を持って丁寧に描かれているので、「こうきて、こうきて、こうだよね」という一つの「形」がしっかりこなされている、という快適さもあります。やはり、常に基本に立ち返る、という意味で、定期的にこういう映画を観るのが大事ですね。

 

しかし、アイス・キューブことオシェア・ジャクソン役を、実子であるオシェア・ジャクソン Jr.が演じている、というのは、何というかどう捉えたものか。ウィル・スミス役をジェイデン・スミスがやっている、と思えば、ああそれはいつかやりそうだ、ということで収まりはつく気がしますが。